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沼南町の東端に位置する原氏の支城。かつては城の直下にまで沼地が広がっていた天然の要害でした。
天正7(1579)年の「手賀城の戦い」では手賀原氏は家老・染谷民部以下200名を配置して千葉氏の軍勢に備えています。おそらく対岸の布川城主・豊島氏との関係があったと思われます。
布瀬は手賀地区の東に位置し、室町時代以前には「布施」と記されていました。旧城内には布瀬地区の鎮守・香取鳥見神社があります。
建武元(1334)年12月21日、相馬義胤の曾孫娘にあたる「土用王御前(尼妙蓮)」が、母・とち御前(尼真如)の実家である新田岩松氏から「とよわう(土用王:岩松直国)」を養子に迎え、彼に「藤心郷」「手賀半分東方」「ふせの■■」などを譲与しました(『尼妙蓮譲状案』)。
応永2(1395)年閏7月、岩松満国の代官によって鎌倉府に提出されたと思われる『所領注文案』によれば、「手賀郷内布施村 二階堂山城知行」と記され、この地が二階堂山城(越訴奉行・二階堂行康カ)の知行地であったことがわかります。
さらに、そのころに作成されたと思われる『岩松氏本知行分注文案』によると、「手賀、布施 彼両村之事同闕所、泉治部大輔、原将監」とあり、手賀・布施は闕所として泉治部大輔、原将監の両名によって支配されていたと思われます。ここに見える「泉治部大輔」とは奥州へ下っていった泉相馬氏の一族か?原将監については不明ながら、もしかすると手賀原氏の祖先なのかもしれません。
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