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真言宗豊山派。龍猛山円城寺興福院。かつては龍猛山無薬院。大同年間(806-10)に当地に一寺院が建立され、弘仁11(820)年、弘法大師作の十一面観音菩薩像が祀られたと伝えられます。新四国三十三ヶ所観音霊場の八番札所。
奈良時代には寺の麓は手賀水海(手賀沼)に洗われており、その水運の利便性から一帯は非常に開けていたと推測されます。律令時代には付近に「手賀寺(現在は廃寺)」があり、多量の布目瓦が発掘されています。その瓦の一部は文化財として「房総風土記の丘」に収蔵されています。
弘長3(1263)年8月10日、法泉寺の澄尊上人が荒廃した寺院を再興。伽藍を配して「興福院」に改めたのでした。
室町時代には手賀原氏の居館が築かれ、興福院も手賀城を構成する一曲輪となっていたと推測されます。天正7(1579)年、手賀城主・原筑前守胤親は千葉介邦胤との戦いの際、興福院に戦勝祈願して勝利を収め、胤親は当寺に宝物を寄進したと伝えられています。この中に、亀に乗った妙見菩薩像も含まれており、現在に伝わっています。
しかし、天正18(1590)年6月、豊臣勢によって手賀城は陥落。興福院も火災に見舞われて灰燼に帰したのでした。そのため、十一世住持・長運和尚が字寺台から現在地に移転して再建、「龍猛山円城寺興福院」となりました。
興福院は江戸時代、各地に十一寺もの末寺を抱える本寺として栄え、手賀地域にも明王院・西光院・千手院・花下院という四つの塔柱ともいえる末寺を有していたのでした(現在いずれも廃寺)。そのほか、周辺各地に末寺を有します。
明治22(1889)年秋、本堂は焼失したものの、仏像や寺宝などは運び出されたため喪失を免れたのでした。現在の本堂は大正7(1918)年再建のものです。
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