千葉県東葛飾郡沼南町(現在は柏市と合併)は、我孫子市、鎌ヶ谷市、松戸市に挟まれた長靴をひっくり返したような形をした町でした。古代においては、この地は相馬郡(南相馬郡)と称されていました。中世になると寄進によって伊勢神宮の領地となり、「相馬御厨」と称されるようになりました。
![]() |
|
利根川 |
千葉県における人類の足跡は先土器時代からみとめられ、石器類の発見地は全県で300個所を超えます。印旛郡印旛村からはナウマン象の化石も発掘されているように、湖沼地が多く、古代人が狩猟生活をするのに適していた土地であったと考えられます。
先土器時代や縄文時代には、県の北部を中心に太平洋の入り江ができあがり、かなり大きな湾が茨城県から埼玉県の方まで入っていたようです。この湾は時代とともに後退し、平安時代や室町時代には香取海とも呼ばれる入り江となっていました。この香取海は海上交易が活発に行われており、沿岸地は「津(戸)」と呼ばれる港が開かれていて、地方豪族が津を支配して、そこから上がる税金などの権益を握っていました。
この香取海の名残が、現在の利根川・鬼怒川などの河川、霞ケ浦・牛久沼・印幡沼・手賀沼・椿海(江戸時代に干拓されて干潟町になる)などの湖沼です。
これら入海の沿岸には当時アサリやハマグリ、川にはシジミなどの貝類が数多く生息しており、古代の人々はこれらを採って食べていました。千葉市にある「加曽利貝塚」は世界最大級の貝塚で、当時海岸にあった集落のごみ捨て場(?)となっていました。加曾利貝塚は現在ではだいぶ内陸に位置していますが、当時は眼前に海が迫り、集団生活が営まれていました。
縄文後期から弥生時代にかけて階級社会が形成されていくと、各地に「古墳」が形成されていきました。東国最古の古墳として3世紀後半の神門古墳群(市原市)があり、ほかにも手古塚古墳(木更津市)、能満寺古墳(睦沢町)、姉崎天神山古墳(市原市)、大覚寺山古墳(千葉市)、山崎ひょうたん塚古墳(佐倉市)、そして沼南町の北作1号墳などがあります。
〜相馬御厨の成立〜(赤い太字を押すと説明が出ます)
![]() |
この手賀沼の周辺から、茨城県にかけての一帯を、その昔「相馬郡」といいました。相馬郡はとても肥えた土地であったため、ここを巡って何度も何度も争いが起きました。
平将門は、父の平良持からこの相馬郡を譲り受け、開発を始めました。将門は相馬郡を領したため、通称を「相馬小次郎」と言いました。将門の伝説は1000年経ったこの現代にも受け継がれており、旧相馬郡の沼南町・我孫子市などには将門を祀る神社がいくつもあります。将門が承平・天慶の乱を起こして殺された後は、その叔父の平良文が天慶の乱で荒廃した土地の回復に努めました。
良文の孫・平忠常はこの房総半島を中心として大反乱を起こし、再び房総半島は荒廃してしまいました。この乱を『長元の乱』といいます。忠常の反乱が鎮圧された後、彼の子供の平常将が房総半島の復興に努め、その子・平常長の五男・常晴が相馬郡を開発しました。また、忠常の弟・平将常は忠常が神妙に降伏したこともあって、武蔵権守に任じられて武蔵国秩父郡中村郷に本拠地を構えて勢力を張り、のちに「坂東八平氏」の一つ、秩父氏となりました。秩父氏からは源平合戦に活躍した、河越氏・畠山氏・江戸氏・小山田氏・渋谷氏などの諸氏が輩出されました。
![]() |
常晴は相馬郡を譲るにあたって、実子・平常澄を差し置いて、兄・平常兼の子・千葉常重を養子として迎え、相馬郡を譲りました。このことが後々まで常澄と常重・常胤のあらそいの原因となります。さて、相馬郡の領主になった千葉常重は「正六位上行下総権介平常重」として、1130(大治5)年6月に相馬郡布施郷を紀州の伊勢神宮内宮に寄進して、相馬御厨(そうまみくりや)」が成立しました。相馬郡の郡衙・御厨は、現在の我孫子市日秀(ひびり)にあったと思われ、遺構からは蔵の跡など公的な機関のあとが発見されています。他にいくつか説はありますが、蔵は年貢を蓄えておく重要なものであり、それが発見されたという事は、この地に郡衙があったことを意味します。
関東には当時御厨は少なく、相馬御厨の成立は画期的な事といえます。その後は東海地方に大庭御厨などができました。千葉常重は御厨の成立と同時に、相馬御厨の下司職と加地子を取る権利を獲得しました。
こうして千葉常重は相馬御厨の下司職となって御厨を支配し、1135(保延元)年に長男の常胤に御厨の権利を譲りました。しかし、翌年の7月、下総守・藤原親通は、御厨内の公田の税を滞納したとして常重を逮捕し、数日後には加徴税を徴収し、さらに、相馬郡と立花郡(=橘郡で、現在の東庄町)の2郷を親通に譲るという新券(地券)をつくって、そこに常胤の署名と書判を書き入れさせ、相馬御厨を乗っ取ってしまいました。さらにこれを子の親盛にゆずって、事実上、相馬御厨は藤原氏が私物化してしまいました。
その後、源義朝が平常澄の「浮言」を理由に相馬郡に乗り込み、常胤から強引に相馬御厨の譲り状を責めとってしまいました。これは、義朝の配下になっていた常澄が、相馬郡の領主権を主張したためとおもわれます。義朝は1145(天養2)年3月に伊勢神宮に寄進し、この地の下司職に任じられました。
これに対抗するため、常胤は未納の税を国衙に納めたところ、1146(久安2)年4月に常胤を相馬郡司としてみとめました。そして同年8月、相馬郡を伊勢神宮へと寄進しました。これは相馬郡という一つの土地が、義朝・常胤の二人によって、二重寄進されたことになります。しかし義朝の圧力には常重・常胤も従わざるを得ず、その配下になっていきました。
源義朝は、千葉常重・上総常澄の両名を支配下においたことで、房総平氏をほぼ掌握したことになり、源氏の勢力は拡大しました。とくに、もともと競争相手の少ない上総国において、筆頭在庁である上総権介の勢力はますます増大し、後に上総権介広常は頼朝から警戒されて殺され、かわって頼朝の信頼のあつかった千葉介常胤の一族が房総平氏の惣領的な立場となりました。
◎下総藤原氏系図1◎
藤原師輔―+―兼家―+―道綱 +―伊周
(関白) |(関白)|(右大将)|(内大臣)
| | |
| +―道隆――+―隆家 +―忠通
| |(関白) (中納言) |(関白)
| | |
| +―道長――――頼通―――師実―――師通――忠実―+―頼長
| (関白) (関白) (関白) (関白)(関白) (左大臣)
|
+―為光――――公信――――保家――公基――伊信――親通――+―親方―――二条院内侍
(太政大臣)(権中納言) |(下総守) |
| ↓
+―親盛===二条院内侍 +―維盛
(下総守) ‖ |(左少将)
‖ ‖ |
平忠盛―+―娘 ‖――――+―資盛
| ‖ (三位中将)
+―清盛――――重盛
(太政大臣)(内大臣)
久寿2(1155)年、源義朝は長男・源義平を鎌倉に残して上洛していきました。義朝は父・源為義の不遇にしびれをきらしての行動でした。しかしこの事が相馬御厨をふたたび争いの地となる原因となってしまいました。
源氏の実質的な棟梁・義朝は、領地にいてはじめてその勢力を誇示できたのでした。しかし、上洛してしまうとその力の均衡は破れ、常陸国に勢力を張っていた源氏の一族・佐竹氏が、相馬御厨をねらって南下してきたのでした。さらに佐竹義宗は、下総守・藤原親通が先に千葉常重から奪い取った相馬郡の地券を持っていたために、相馬郡は有無を言わさず奪い取られ、それを伊勢神宮に寄進して、相馬御厨の下司職となってしまいました。そしてそれ以降20年の間、佐竹氏の領地となったのでした。
頼朝が挙兵して佐竹氏を討伐すると千葉氏は相馬郡を取り返し、千葉常胤の次男・千葉師常がこれを継承して代々相馬氏を称しました。相馬氏は鎌倉時代末期に奥州相馬氏と下総相馬氏の二流に別れてそれぞれ発展し、奥州相馬氏は江戸時代に中村藩6万石の藩主として、下総の相馬氏は江戸幕府の旗本となった一流のほか、小田原藩の客将になった家、ここ沼南町にとどまって帰農した家など様々に分かれていきました。
![]() |
|
沼南町最大の城址・箕輪城 |
中世の沼南町は、おおまかに分けて東側を領していた原氏と南部を領した相馬氏、そして西側を領していた高城氏の3つの勢力に分けることができます。高城氏は千葉家筆頭家老・臼井城主原氏の庶流といわれ、その軍役を担った重臣でした。また、手賀城を居城とした手賀原氏は原氏の分家で、手賀郷に派遣されていました。そして相馬氏は鎌倉時代から約400年続くもっとも古い家系を誇る名門でした。とくに勢力が大きかったのが高城氏で、手賀原氏や手賀沼の対岸の我孫子地方の豊島氏などと手を結んで戦国大名として独立。小田原北条氏の外様衆として認められていました。
下総相馬氏の宗家は、沼南町から遥か北方の守谷城(北相馬郡守谷町)を本拠地としており、古河公方家に仕える奉公衆でした。沼南町の相馬氏といかなるつながりがあるのかはわかりませんが、下総相馬氏の一族が、室町中期に奥州相馬氏や相馬岡田氏の所領から自然消滅した感のある旧領(相馬郡泉村、金山など)に侵入して在地の豪族となり、発展していったものかもしれません。
![]() |
|
兵主八幡宮馬場 |
高城氏は沼南町内に領内の北の押さえとして「箕輪城」を築きました。箕輪城は複雑な縄張り、出丸、空堀、土塁が形成されており、本格的な戦闘に備えるための城であったと考えられます。さらにその出城的な役割を担う城として「箕輪如意寺城」が築かれました。如意寺城は北は手賀沼に面し、東・南・西の三方を急崖と湿地にかこまれた標高26メートルの天然の要害でした。
手賀原氏は、手賀城の南に「兵主八幡宮」を建立して一族の鎮守として祀りました。「兵主八幡」とは「兵主神社=大国主命(大黒様)」と「八幡神社=応神天皇」の両軍神を併せて祀った神社で、原氏の馬場に建立されました。この馬場では流鏑馬などが催され、神に奉納していたのでしょう。また原氏は「妙見菩薩」を自らの守護神として崇めており、手賀原氏も千葉一族の伝統的信仰として妙見信仰を忠実に崇めていたことがわかります。そして天正7(1579)年の「手賀の戦い」のとき、原胤親(筑前守)は城域の興福院に戦勝祈願を行って大須賀尾張守らが率いる軍勢に勝利したことから、興福院に寺領と宝物が寄進されました。
![]() |
|
原氏御墓場 |
もともと興福院は手賀字寺山にありましたが、天正18(1590)年、豊臣秀吉の軍勢による小田原征討と同じくして、手賀城も浅野長吉(長政)らの攻撃を受けて落城。このとき城に隣接していた興福院も延焼し、のちに再建されて現在の地に移されました。城主・原胤親は徳川家康に降伏したのち没し、再建された興福院に葬られたとされますが、今は墓所など不明。彼の位牌は我孫子市都部の正泉寺にあります。原氏は興福院の末寺も保護しており、かつて手賀地区にあった西光院・明王院・花下院・千手院(いずれも廃寺)、柳戸の弘誓院に宝物を寄進し、弘誓院の大檀那として「高城胤則」「原胤定(胤貞)」の名を見ることができます。かつて千手院があった付近には、原氏の「御墓場」があり、弘化3(1846)年、手賀原氏の子孫・原胤好の遺命によって、子・原胤預が古い墓地を整理して現在の形にまとめました。 天正18(1590)年、豊臣軍によって町内の諸城はことごとく破却され、泉妙見山城主だった相馬師胤(小次郎)は落城と同じくして自害して果て、師胤開基の龍泉院に葬られたとされます。法名は茂山玄林大居士。のち、師胤菩提のために新井堂と辻堂が寄進されて、辻堂は相馬氏の廟所となりましたが墓石などは現存はしていません。
@下総相馬氏のこと
下総相馬氏は、奥州中村藩6万石の相馬氏と同族で、おなじ「九曜紋」を用いています。奥州相馬氏と下総相馬氏の分裂は、鎌倉時代後期にまでさかのぼり、相馬氏惣領(と思われる)の相馬胤村が急死したため、子息たちに「惣領権」と所領配分を明確にできなかったことから、その後妻・阿蓮尼が「惣領代」として相馬家政を仕切り、自らの腹から産まれた嫡子・相馬師胤は自分が「相馬惣領」であるとして、父・胤村の『譲状』として幕府へ提出しました。ただし、師胤にこのまま「惣領権」が認められたかは不明です。
一方、胤村の長男・相馬胤氏はこの所領相続の問題によるものか、師胤の子・相馬重胤領である奥州行方郡内の稲を刈り取る濫妨をおこないました。実際、胤氏は奥州・下総北部にかなり大きな所領を持っており、惣領権はやはり胤氏が握ったとも考えられます。ただし、胤氏の子孫は奥州の所領を幕府に奪われ、その土地の周辺をめぐって相馬重胤が御内人の長崎思元と争うなど、行方郡内の所領を保つため、さらに敵対する胤氏流相馬氏から離れるためか、長崎との訴訟の最中に重胤は奥州へ下っていきました。こののち、重胤流相馬氏は奥州行方郡を本拠地として発展。子孫は江戸時代に中村藩主となりました。
南北朝時代の下総相馬氏一族・相馬忠重(四郎左衛門尉)は、本間資氏(孫四郎)とともに新田義貞の部将として活躍し、ともに強弓をひく名将として名を馳せていました。しかし、越前の戦いで戦死したとも逃れたともいわれ、子・相馬義元は信濃国へ逃れて兵法家となり、「念流」という流派の基礎を築きました。忠重は藤ヶ谷城に本拠を構えていたと言われ、系図上彼の甥・相馬胤宗の子孫が下総相馬氏を継承し、その支流が藤ヶ谷城主となったのかも。室町時代、藤ヶ谷城の相馬氏の家老に「勝柴治右衛門」「勝柴佐兵衛」が、藤ヶ谷城代として「小川太左衛門」、藤ヶ谷城の南に位置する藤ヶ谷中上城主として「相馬伊左衛門」「深野忠右衛門」があったとされます。
建久元(1190)年、鎌倉の千葉館において、千葉介常胤は如意輪観音の夢の御告げを聞き、京都仏師・運慶に観音像を彫らせ、所領の相馬御厨に勧進したといわれます。そして、相馬御厨に「如意輪観音」を運んだ仏師「登慶(運慶の従弟)」にちなんで山号を「登慶山」としたと伝わります。これが「登慶山如意輪寺」の創建縁起です。この観音堂のふもとに、正慶2(1333)年、南朝方に与した名将・相馬忠重が天台宗寺院「持法院」を建立し、それ以降、下総相馬氏の菩提寺となりました。本尊は阿弥陀如来。お寺は田んぼ沿いに築かれていて、寺の参道の手前にある急階段を登ると「如意輪観音堂」があり、観音像は町の指定文化財となっています。また持法院は桜・紫陽花・彼岸花など四季の草花が豊富なお寺として知られています。
天文6(1537)年正月、結城政朝に対して多賀谷家重・小田政治が攻撃をかけてきました。このとき、政朝は嫡男・政勝に命じて足利晴氏に救援を求め、次男の小山高朝(下野守)はじめ、一族の山川小山氏、岩上結城氏、水谷氏らを率いてこれを打ち破りました。一方、晴氏も支配下にある国人たちを結城氏の援軍として派遣し、そのなかに「守谷、筒戸」が見えることから、相馬胤広と筒戸胤満の兄弟が出陣したとおもわれます。相馬胤広は相馬郡130カ村を領し、家老の泉田靱負佐・相馬玄蕃允ら450騎を率いて加わっています。一時は所領を奥州の相馬惣領家に奪われていた下総相馬氏ですが、14世紀末には宗家の相馬郡支配は事実上放棄され(『相馬家文書』等)、ふたたび下総相馬氏が知行(奪取)したのでしょう。
応永2(1395)年のものと思われる『下総国南相馬郡等田数注進案』には「ちうしん 下おさの国ミなミさうまのむら、ならひニ六の国なめかたのこほりのかうむらのてんすうの事(注進 下総国南相馬の村、ならびに陸奥国行方の郡の郷村の田数のこと)」として「鷲谷村・箕輪村・泉村・大井村・高柳村・薩間村・粟野村・藤ヶ谷村」の事が記されています。応永2年の惣領家・相馬胤弘は形式的にこれら南相馬郡の所領を相続しているようですが、応永2(1395)年10月21日付の『相馬憲胤譲状』にみえる所領には下総相馬郡内の所領(鷲谷村・箕輪村・泉村・大井村・高柳村・上柳戸村・薩間村・粟野村・藤ヶ谷村・増尾村・金山村・船戸村)はすでに消えており、奥州からの惣領家の支配権は不可能となっていたと思われます。
以降は千葉氏に従属し、そのまま北条氏の外様衆となりました。永禄2(1559)年、上杉輝虎が足利晴氏(関東公方)の居城・下総古河城を攻めたとき、北条氏康は晴氏の援軍として南条山城守ら300騎を向かわせ、結城晴朝・長沼守信・相馬親胤が援兵として古河に向かったと『関東古戦録』に見えます。相馬親胤は、相馬胤広の曾孫・相馬整胤の3男にあたります。
守谷城主として北条氏に味方し、義兄の高井治胤と争っていた相馬整胤が突然、郎党に暗殺されてしまい、23歳という年のために嫡子がありませんでした。治胤はかつて足利晴氏らとともに北条氏・足利義氏と敵対していましたが、永禄9(1566)年に北条氏に降っていたことから、治胤が家督を継ぐことが認められて相馬治胤として下総相馬氏の家督を継承しました。また彼の弟の相馬胤永(下総高井城)と相馬親胤(下総筒戸城)は、北条氏の指揮下に入り、天正18(1590)年、小田原城に篭城しました。
結局、小田原城は落城し、城主・北条氏政とその弟・氏照は自刃させられ、相馬胤治は城を落ちていきました。しかし、関東に入府してきた徳川家康は、治胤の子・相馬秀胤を召し出して旗本に加え、彼が名族の末裔という理由から交代寄合に就任させ、禄5000石を与えて幕末にいたりました。秀胤は関ヶ原の戦い、大坂の陣に参陣して戦功をあげ、従五位下信濃守に叙爵しています。
胤治の弟・永胤も小田原の陣に参加して没落しましたが、彼の子・相馬胤勝は徳川家の重臣・大久保忠隣の客分として家臣となることなく、幕末まで小田原藩大久保氏のもとで360石を領し、「大久保に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に相馬渡辺」とうたわれました。その中で、胤勝の次男・相馬胤正は祖父の地・下総高井に帰農して庄屋になったと伝わります。応仁期の胤広の末弟・相馬胤直(大蔵大輔)の子孫は、小田原落城の後に井伊直政に仕えて近江彦根藩士となりました。また、古河公方の末裔である喜連川藩主・喜連川足利氏に仕え、その重臣となった相馬氏があります。幕府後期の喜連川藩中老の相馬玄蕃允、その子・相馬小次郎が見ることができます。相馬玄蕃允家はもともと下総相馬氏の家老的立場にあった家柄で、そのうち相馬氏から古河公方に直々に仕える重臣(奏者か)となり、そのまま喜連川藩の重臣となったのでしょう。家紋は「九曜」。
●下総相馬氏の一族重臣●
→相馬 石井 泉 泉田 岡田 勝柴 廣瀬 小川 染谷 横山 森山
A手賀原氏のこと:手賀城の戦い…天正7(1579)年4月3日
天正7(1579)年4月3日、原胤栄(臼井城主)と千葉介邦胤が手賀城の原胤親を攻める事件がありました。胤栄と胤親は兄弟であり、彼らの父・原胤貞(上総介)が千葉介勝胤から相馬郡手賀六百貫を下賜されたと伝えられ、これが手賀原氏の基となりました。手賀城の戦いは胤栄が手賀を合併しようとしておこした戦いであったのかもしれません。胤栄は千葉介邦胤をも抱き込んで、大義名分を得たのでしょう。千葉介邦胤は、原胤親・高城胤辰に対して、「我が領内を騒がすことまことに奇怪」として原胤栄を大将とした三千騎を手賀に差し向けたのでした。 胤栄の襲来を知った胤親は、手賀城内の興福院に戦勝祈願をして籠城。さらに小金大谷口城の高城胤辰、我孫子の諸将にも援軍を求めました。胤辰はこの要請にこたえ、救援の軍勢として安蒜安芸守・高柳図書・綿貫大学らに五百名の兵をつけて派遣しています。高城氏はかつて原氏家老の地位にありましたが、その後は独立して北条氏の外様衆の一人に数えられています。
原胤親は、胤栄の来襲に備えて、領内の諸城に重臣を派遣して守らせました。南の押さえとして新たに柳戸城を築いて粟飯原左衛門以下五百名で守らせ、鷲野谷城には原勘解由、布瀬城には染谷民部、手賀入り江には篠原長門守、名内台(白井町)には栗林左衛門、手賀城本城を原胤親自らが大山佐四郎・湯浅甚七郎(もと千葉氏の直臣か)らと五百人で固め、我孫子と小金大谷口に援軍要請の使者を派遣しました。 4月6日、南部から攻め寄せた原胤栄は名内台城を攻め落とすと、7日には南部手賀沼を挟んだ対岸の柳戸砦に攻め寄せました。柳戸城将・粟飯原左衛門は胤栄の攻撃によく耐えていましたが、胤栄は家臣・神保内蔵助を柳戸に派遣して説得してこれを寝返らせることに成功。布瀬・手賀・鷲野谷城攻撃のため、胤栄勢は北部へ回り込みました。 一方、臼井勢が動いたことを知った荒木三河守(柴崎城主)・我孫子五郎右衛門(我孫子城主)・河村出羽守(芝原城主)・豊島肥前守(布佐城主)ら我孫子の諸将は、胤親からの援軍要請の使者が来る前から芝原城に集まって対応を相談をしており、胤親からの使者が来るや、総勢千六百人の連合軍を編成し、8日、手賀沼を舟でわたって千葉勢をうしろから突く作戦に出ました。しかし、舟は機敏に動くことはできず、陸上から鉄砲を撃ちかけられて百名もの死傷者を出しました。一旦、沼の半ばまで退いた我孫子勢でしたが、そこに小金城主・高城胤則の援軍五百人が駆けつけて胤栄勢の背後から鉄砲を撃ちかけたため、胤栄勢は混乱して退却をはじめました。これを見た我孫子の諸将も上陸して胤栄勢に襲いかかり、胤親も城門をあけて胤栄勢に攻めかかったことから、胤栄勢は東・南・北の三方向から敵を受けることになり、東に向かって壊走しました。
佐倉城まで生き延びた兵が千葉介邦胤にこの大敗を注進すると、邦胤は驚いて重臣・大須賀尾張守を大将に任命し、手賀の支城である鷲野谷城を陥すべしと命じ、尚原美濃守(粟飯原美濃守か?)には我孫子攻めの大将として、布佐城(我孫子市布佐)の攻撃を命じました。尚原の軍勢が布佐に侵攻する知らせを受けた豊島越前守は、香取若狭守とともに布佐城の守りを固めて彼らを待ち受けました。そして、大須賀・尚原が出陣してまもなく、邦胤も五千人を率いて自ら出陣しようとしましたが、突然病に倒れ、大須賀・尚原両軍に引き揚げの命を出したため、第二次手賀合戦は両軍が遇うことなく終了しました。胤親は大須賀勢の伏兵を警戒して追撃をせず、高城勢と我孫子勢の援軍を手賀城に迎え入れて労をねぎらい、翌日彼らはそれぞれの城に引き揚げていきました。




柳戸城
| 天正7(1579)年4月3日 | 千葉勢、臼井城に到着 | ・千葉信濃守(大須賀信濃か) ・原胤栄 | ・原胤親 |
| 4月6日 | 名内台の戦い | ・原胤栄 | ・原胤親 ・栗林左衛門 |
| 4月7日 | 柳戸の戦い 柳戸城主・粟飯原氏裏切る | ・原胤栄 ・神保内蔵助 | ・原胤親 ・粟飯原左衛門 |
| 4月8日 | 手賀城の戦い | ・原胤栄 | ・原胤親(手賀城主) ・原勘解由 ・染谷民部 ・篠原長門 ・荒木三河守(我孫子連合) ・我孫子五郎右衛門 ・河村出羽守 ・豊嶋肥前守 ・安蒜安芸守(高城勢) ・高柳図書 ・綿貫大学 |
![]() |
| 沼南町の勢力地図 |
|---|
|
江戸時代の沼南町は天領(幕府の直轄地)と駿河国田中藩の飛領地、それに旗本の知行地として三分されていました。旗本の本多氏は代々徳川家に仕え、元和2(1616)年ここ下総国相馬郡(沼南町)の大井・高柳・藤ヶ谷・塚崎・五条谷・若白毛村1万石を領して大名に列せられました。元禄16(1703)年には上野国沼田藩主として入封、さらに亨保15(1730)年、本多氏6代目の正矩が駿河国田中藩3万石に移封されて、それに相馬郡1万石を加えた4万石の大名となりました。
−本多氏略系図@−
本多助政―+―定通―定忠―定助―+―助時―助豊―忠豊―+―忠尚――忠勝――――――――+―忠政――――忠刻
| | | (伊勢桑名藩主) | ‖
| | | | ‖
| | +―忠真 | 徳川秀忠――千姫
| | |
| +―正時―正助―信正―重正―+―重富――富正 +―忠朝
| | (加賀藩家老) |
| | |
| +―重次――――成重 +―冬姫
| (作左衛門)(丸岡藩主) (真田信之妻)
|
+―定正―定吉―正明―忠正―正定―俊正―+―正信―――正純
|(佐渡守)(上野介)
|
+―正重――――+―正氏:文禄4(1595)年8月自刃。26歳。
(三弥左衛門)|(平四郎)
|
+―正包:慶長13(1608)年6月病死 榊原大膳――+
|(千介) |
| | 【駿河田中藩主】
+=正貫―――正直――+―正永=========正武====正矩―――+
長坂重吉―――(豊前守)(伯耆守)|(紀伊守) (遠江守) (伯耆守) |
|・従四位下侍従 |
|・下総国相馬郡領主 |
| |
+―正方――――正矩 |
(三左衛門)(伯耆守) |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
| 【安房長尾藩主】
+―正珍―――――+―正堅 +―正寛==正訥=====正憲====正復――正辰
|(伯耆守) |(紀伊守) | (従五位下)
|・従四位下侍従 | | ・子爵
| +―正供―――正温――正意―+―正貞――正憲
+―正芽 (紀伊守) |
(左門) +―正訥
![]() |
田中藩主となった本多氏は飛び地である相馬郡四十二カ村を「南相馬」と「中相馬」の二つに分け、南相馬は藤心(柏市藤心)に、中相馬は船戸に陣屋をおいて代官を派遣して支配しました。本多氏は相馬郡の領民たちから非常に厚い信望を得ていたようで、明治2(1869)年に本多氏が阿波国長尾に国替えになると聞かされた領民たちは42カ村挙げて、本多氏の転封反対の大運動を起こしたほどでした。
沼南町周辺は馬を放牧するのに適した台地で、「小金牧」という幕府の公営牧場がつくられ、現在でも馬が牧の外にでない様にする土塁がのこっています。小金牧の牧役人は旧小金大谷口城主の高城氏の重臣だった綿貫氏がつとめていました。沼南町からは村の役目(助郷役)で何人も牧場へと駆り出されて農村は苦しい状況でした。そもそも房総における牧場の歴史は古く、千年以上も前の将門の時代にまでさかのぼります。現在の成田空港もかつての牧場の一部で、空港建設まで牧場として続きました。
手賀沼は数回にわたって干拓事業が行われ、沼を堤で上下に分けて新田の開発がおこなわれました。しかし、もともと低湿地であり、排水は極度に悪かったため、現代に至るまで水害が絶えませんでした。また、老中・田沼意次による手賀沼・印幡沼干拓も実行されましたが、意次の賄賂政治による失脚により中断され、明治時代から昭和期まで繰り返されて、昭和42年に干拓事業は完成しました。しかし、干拓による水量の低下と堤によって水流が滞ったうえに、周辺に住む人口が急増したため生活排水が流入し、現在では日本一汚い沼となってしまいました。
幕末の動乱の中、水戸藩内の尊王攘夷の過激派が同じく藩内の保守派・諸生党と対立して筑波山麓に挙兵し、天狗党と名乗りました。ときは元治元(1864)年。かつて水戸藩の公子で現将軍の徳川慶喜に尊王攘夷の直訴をすると称して上方へ向かいましたが、途中で金沢藩前田家の兵に行く手を阻まれ降伏。首謀者の武田耕雲斎・藤田小四郎らが斬罪に処せられて決着しました。
挙兵した天狗党は軍資金と兵糧を常陸はもとより下総・武蔵・下野などで調達しました。そしてある日、相馬郡高柳村の名主・酒巻孫右衛門宅に天狗党と称した三人の武士が訪れて、翌朝の明六つまでに12俵の兵糧を布施村の後藤山(柏市)に運ぶように命じました。しかし、翌朝そこへ兵糧を運んでみると誰もおらず、俵をおいて逃げ帰ったという事です。
明治時代の小金牧開拓
●小金牧・佐倉牧の地名
| 小金牧名 | ||
| 中野牧 | 初富村 | 鎌ヶ谷市初富、北初富、南初富 |
| 下野牧 | 二和村
三咲村 | 船橋市二和 船橋市三咲 |
| 上野牧 | 豊四季村 | 柏市豊四季、北豊四季、中豊四季、南豊四季 |
| 中野牧 | 五香村
六実村 | 松戸市五香 松戸市六実 |
| 内野牧 | 七栄村 | 印旛郡富里町 |
| 柳沢牧 | 八街村 | 八街市 |
| 油田牧 | 九美上村 | 佐原市九美上 |
| 高野牧 | 十倉村 | 印旛郡富里町十倉 |
| 印西牧 | 十余一村 | 柏市十余一 |
| 高田台牧 | 十余二村 | 柏市十余二 |
| 矢作牧 | 十余三村 | 成田市十余三 |
明治時代に入ると、明治新政府のスローガン「殖産興業」の一環として、さらに東京に集まっていた失業者などの救済の意味も兼ねて、かつての幕府官牧である小金牧・佐倉牧の開墾政策が計画され、明治2(1869)年5月、東京府下の豪商・三井八郎右衛門らに開墾会社を設立させ、小金牧中五牧(上野・中野・下野・高田台・印西牧)・佐倉七牧(柳澤・内野・高野・矢作・油田・小間子・取香牧)中五牧(小間子・取香牧以外)が彼らに払い下げられ、会社を管轄する「開墾役所(のち開墾局)」が東京府に設けられました。
同年10月、これらの開墾地に移民を希望する者1万人を公募して、明治4(1871)年1月までに小金牧には3,823人、佐倉牧には2,480人が移住しています。財産を持って移住してきた者は「富民」と呼ばれ、相応の土地を与えて独立の農民として開拓社員となり、無産の移民は「力民」として富民に付けられ、独立できうる力をつけた後は富民とされる規則が決められました。
土地は江戸時代を通じて牧場だったために古くからの地名が伝わらず、移住が行われた順番に番号がつけられていくこととなり、さらに縁起のよい一字を加えて字名としました。村名は明治5(1872)年11月2日付で認められています。
|ページの最初へ|トップページへ|千葉宗家の目次|千葉氏の一族|リンク集|掲示板|
Copyright(C)1997-2007 S-Shibata. All rights
reserved
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固く禁止いたします。