Updated at

写真集 茨城鉄道線

間違いや不足などがございましたら、 こちらで ご指摘いただければ幸いです。

asahi/ga/oka住人A君

プロローグ

昭和39年の年末、茨城交通茨城鉄道線の写真を撮りにでかけたようです。 本人はどんなきっかけで出かけたのか、もう覚えていないのですが、 古いアルバムに21枚の写真と使用済み切符が残っています。

茨城交通茨城鉄道線、通称、茨鉄線(イバテツセン)はこの頃まだ、 国鉄(現JR)常磐線赤塚駅から御前山駅までの全線が健在でした。 赤塚駅から大学前駅までが直流600V電化。その先、石塚を経て 御前山までがディーゼル化されていました。市内電車の茨城交通水浜線が、 上水戸駅から大学前駅まで乗り入れていた時期でもあります。

撮影はおそらくオリンパス・ペンというハーフサイズカメラを使っていた筈です。 もちろんモノクローム。この頃の中学1年生にしては随分生意気なことをしてたようです。 中学校がこの茨鉄線の曙町駅から近かったのとバス通学だったのとで、ときには 電車で帰ろうと小遣いを貯めて電車賃を用意し、曙町に乗り入れて来る水浜電車に 南町まで乗って、帰宅したこともありました。それにしても冬休みのさなか、師走の晦日に、 単独撮影旅行(?)を決行したのですから、よほど趣味が嵩じていたのでしょう。 もしかすると中学校で「あの電車、もうじきなくなる」といった話でも 聞き込んだためかもしれません。

おそらくは水戸駅前まで歩き、水浜電車で上水戸へ。そこから撮影を始めて 電車で赤塚まで行き、すぐ折り返しの電車で上水戸。ここで石塚行きの気動車に 乗り継いで石塚まで。御前山までは行かずに折り返しの列車で帰って来ています。 今になってみると、水浜電車も撮影しておけばよかった、 頑張って御前山まで行ってくればよかった、などと思います。 でも、鉄道を写真に撮ること自体が、かなり奇異な目で見られたこの当時だと、 これが精一杯だったのでしょう。ここに掲げた以外の写真は残っていないようです。

下は、赤塚駅ホームの跨線橋の壁に掲示されていた茨鉄線の時刻表と、 このとき記録した駅名一覧です。

アルバムに残る駅名
赤塚(あかつか)国鉄常磐線赤塚駅共同使用
東石川(ひがしいしかわ)
西原町(にしはらちょう)旧国道50号踏切り地点
上水戸(かみみと)水浜電車接続駅
曙町(あけぼのちょう)
大学前(だいがくまえ)バス車庫脇
電化区間終点
水浜電車乗入れ終点
堀(ほり)写真あり
田野(たの)
飯富(いいとみ)写真あり
藤井(ふじい)
那珂西(なかさい)写真あり
石塚(いしつか)写真あり
・・・これより北は記録なし
御前山(ごぜんやま)

もうこの時期、御前山までの列車は 朝1本、午後2本、そして晩に1本の、計4本(上水戸乗換え含む)だけ。 石塚から御前山へのバス連絡便(△印)が6本です。 少なくとも石塚以北は、鉄道からバスへの転換が進んでいたようです。



上水戸から赤塚へ

上水戸駅を出た電車は右へ大きくカーブし、 いきなり畑の真ん中の緩い坂を上がっていきます。 この坂が、乗車したモハ2にとっては「きつい坂」だったようで、 モータ音を響かせてゆっくりと走っていたと記憶しています。 線路跡は道路になっていますが、車では坂だと気付かない くらいの、緩い坂なのですが。



旧国道50号線は大工町から東町、東原、自由が丘の先、 石川町の手前の西原町に、茨鉄線の踏切がありました。 電車のほうは上述の上り坂のあと、 真っ直ぐな緩い下り坂でこの踏切に至ります。 駅のプラットフォームは踏切のすぐ南側(赤塚側)でした。 すぐ先の架線柱の丸いものは、この踏切の遮断機が降りて いることの表示灯だったようです。 列車はこの先で坂が急になって、 小さな谷間に降りて行きます。



千波湖から常盤大学の前を経て赤塚の東に続く谷間。 この浅い谷間に、この東石川駅がありました。 元はもう一本線路があって、上下列車が交換できるように なっていました。撤収したレールと枕木がそのまま 置いてあります。
かつてこの駅は「金比羅前」と名付け られていました。その神社の参道だったのか、 向かって右手に、駅から登る石段があったような、 おぼろな記憶があるのですが・・・。
この先、電車は谷底から赤塚駅へ向かって坂を上り、 常磐線と大体並行して赤塚駅に至ります。



赤塚駅に東から進入するモハ2の前面窓から。 右は貨物用の側線です。 交流20,000Vで電化された常磐線の、立派な架線柱の横木の下に、 茨鉄線の600Vの直接吊り架線が伸びています。 右線路脇には出発信号機が見えますね。 確かここは最後まで、腕木式信号機でした。



貨物側線の終端、つまり旧赤塚駅北口東側の荷扱い所前から。 側線は2本ありました。貨車は茨鉄線のワフ4000。 昔は貨車が国鉄に直通していたこともあった筈です。



このホーム、右の2番線が常磐線下り本線、左の1番線が 茨鉄線です。1番線は2番線より高さが低くなっていました。 これは常磐線を中距離電車が走るようになって、 2番線を嵩上げしたためだったと記憶しています。 停車中の電車はモハ2。水浜電車と同じ、いわゆるZパンタで 集電しています。車掌さんが終点で紐を引いて集電ポールの向きを 変えていた時代もあったように覚えているのですが・・・。




上水戸から石塚へ

上水戸駅3番線から赤塚方面を望む。
3番線は もともと、改札口から入ったすぐのホームでした。しかし この時期には、水浜線から乗り入れてくる路面電車の通過線になっていました。 手前の急カーブする2本の線路が水浜電車との連絡線です。 1、2番線は駅前広場の上水戸駅に向かって左手、 水浜電車の乗り場に割り振られていました。 この日以前に水浜電車に乗ってみたときの私の記録に 下のような配線図が残っています。(不正確かもしれません。)
クリックで切換


上水戸駅4番線から大学前方面を望む。
このホームが茨鉄線列車の発着ホームです。右側が4番線で 左側が5番線。4番線の右に貨物側線を間に挟んで3番線、 右端の貨車の手前に貨物ホームが少し見えています。 一方、5番線の左にも側線があり、車両のねぐらになっていました。 この頃、車両の整備場は大学前駅に移っていたように記憶しています。



大学前駅から上水戸方面を望む。
乗り入れて来る水浜電車の終点で、茨鉄線でもこの駅で折り返す 列車(電車)がありました。右の建物は茨城交通バスの茨大前車庫。 その片隅に茨鉄線の側線が一本入っていて、 そこでモハ1が整備を受けているのを、 バスを待つ間に探検して見つけた記憶があります。 ここと曙町駅では、写っている茨鉄線車両用の高いホームより先に、 路面電車の水浜線用の低いホームがありました。 この駅は「大学前」でしたが、バス停留所は「茨大前」で、 乗り入れて来る水浜線は「茨大」のサボをつけてました。



大学前駅から石塚方面を望む。
電化されていたのはこの駅まで。線路の分岐の少し先で架線がなくなっています。

茨鉄線の架線は殆どが直接つり架線(第5.25図)でしたが、 上水戸〜大学前間だけは、この写真でお判りのように、 シンプルカテナリ(単式架線、第5.26図)でした。 これは乗り入れる水浜電車の専用軌道区間と同じ方式で、 常磐線など国鉄も大半がこの方式です。乗入れに際して 変更されたのでしょうか。水浜電車も併用軌道区間では 直接つり架線でした。 水浜電車は、専用軌道の区間では結構スピードを出していましたが、 架線構造もそれを可能にした要素の一つだったのでしょう。

電気学会大学講座「電気鉄道」より引用
メモ:茨鉄線は全線、専用軌道でした。 上水戸〜大学前を除き、沿線はまだ市街地化されていませんでした。 水浜電車は上水戸〜公園入口、水戸駅前〜東柵町、 浜田〜大洗が専用軌道、その間の公園入口〜水戸駅前が上市の、 東柵町〜浜田が下市の路上を走る併用軌道でした。



堀駅。
上水戸方から進入するところです。この先かなり長い直線区間の後、 線路は緩く左に曲がり、那珂川流域(田野川)の低地に向かって 坂を降りて行きます。



飯富駅。
上水戸方から進入するところです。東石川駅と同様、 以前は交換できる駅でしたが、既に下り本線は撤収され、 上りホームの腕木式信号機も使われなくなっていました。



那珂西(なかさい)駅。
上水戸方から進入するところです。 ここの交換設備は飯富駅よりさらに昔に撤収されたようで、 左側の下りプラットホームは草叢と化していました。



石塚駅1番線ホーム。
到着した列車から、荷物が積み降ろされているところです。 ここは上水戸の次に広い構内を持つ駅でした。 駅の建物(本屋)も大きく、駅前広場がありました。 上水戸方には蒸気機関車の給水塔が、まだ残っていた記憶があります。 とはいえ、2番線、3番線のホームは草が生い茂り、 実質的には車両の留置(放置?)に使われていたと記憶しています。



左は、ひとつ上の写真の駅名標を拡大したもの。 石塚の次の駅は「常陸岩船」という記録が残っているようですが、 駅名標では「いわふね」となっています。

ところで、もし貴方が水戸周辺の方でしたら、 石塚が「いし『つ』か」だってこと、ご存知でしたか? 私は「いしづか」だとばかり思ってました・・・。 また「茨交ストア」を「いばこうすとあ」と読めるのは 水戸周辺の方々だけでしょうね。茨大(いばだい)、茨鉄(いばてつ)、・・・。

右はひとつ上の写真の信号機を拡大したもの。 上り下りを一本の柱の表裏に併設した信号機です。 大学前駅にあったものも同様でした。 どうやらランプも上り下りで共用しているようで、 青と赤のフィルターの位置が 赤塚駅の普通の腕木式信号機とは違っています。 最初から節約型だったのか、経営が苦しくなって変えたのか、さて?



石塚駅から上水戸方面を望む。
1番線ホームから南を見ています。 逆光で細部が判りにくくて済みません。 手前にあるのは、折り返しの列車に積む荷物のようです。 シルエットの人物は、たぶんこの列車の車掌さんです。 ひとつ上の写真で腕木が2本とも水平(=停止信号)だったのに、 反対から見たこの写真では上り出発信号が下がってます(=進行信号)。 運転手さんと駅長さんが、本屋の中で列車到着と折り返し出発の 手続きをしたのでしょう。



石塚駅から御前山方面を望む。
1番線ホームから再び北を見ています。 レールの間が気動車の油で黒くなっているのが、1番線のホーム部分まで。 この先は滅多に列車が走らないことを、如実に示していますね。 それでも側線も含めて線路に雑草なんぞ生えていないのは、 この頃の鉄道だから?それとも水戸ッポだから?



車両の一部

ハフ11 石塚駅2番線(留置線)
ご覧になった方からご記帳所に この車両の謂れを教えていただきました。 「このハフ11は水戸電気鉄道の気動車で、同社から茨城交通に譲渡された」 とのこと。水戸電気鉄道。水戸の柵町から茨城町奥谷までの、 一度も電化されることなく終焉を迎えた鉄道ですね。

ケハ401 上水戸駅4番線
ケハ502 石塚駅3番線(留置線)
モハ1、モハ2 上水戸駅西側留置線

切符

この撮影旅行のときの上水戸〜石塚間の切符と、どこで手に入れたのか 少し前の上水戸〜赤塚間の切符です。2等の青切符で、地模様には 「こくてつ」の代わりに「てつどう」の文字があります。

ご覧になった方から「2等」の表示についてご質問がありました。

昭和35年7月に1,2,3等制が廃止され、2等⇒1等,3等⇒2等と改められました。 これより前に、既に1等客車連結の「つばめ」と「はと」は電車化されて、1等客車に乗る 機会はなくなっていたようです。この改正で、旧3等の赤切符は国電区間の短距離切符に残る だけとなり、庶民の切符が青切符に、1等の緑切符がちょっと贅沢な切符になりました。

一方、国鉄の等級制廃止(モノクラス制実施)はこの小旅行の4年半後、 昭和44年5月でした。このとき2等が普通車、1等がグリーン車になりました。

ですから、この小旅行の昭和39年末はちょうどこの間。2等は今の普通車です。

国鉄と連絡運輸を行う(つまり双方が通しの切符を発売する)私鉄は沢山ありますが、 いずれも同じ等級制をとっていました。とはいうものの、この頃の1等運賃が定まって いたのは、1等車を保有する大手私鉄の一部と国鉄の1等車が乗り入れる一部私鉄だけでした。 もちろん茨鉄線は2等車(旧3等車、現普通車)のみでしたが、制度として2等を表示して いたものと思われます。

土浦から石塚まで(あるいはその逆)の通し切符なんて、茨城鉄道の歴史の中で いったい何枚発行されたんでしょうね?

なお、この項の調査には 「国鉄があった時代 あの時こんなことが」が大変参考になりました。正に力作ですよ、ここ。


間違いや不足などがございましたら、 こちらで ご指摘いただければ幸いです。

asahi/ga/oka住人A君