| 上矢部の歴史 | ||||||||||||||||||
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境川の源流
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上矢部の歴史は相模原の中でも古く、
古墳時代の後期とされている。須恵器の出土は境川筋では橋本瑞光寺裏手から小山宮下、上矢部の北にかけてである。また古墳時代から奈良平安時代にかけては土師器が発見されている。
1970年に上矢部5丁目付近の畑地から、弥生時代後期に属する土器が発見されました(相模原市史第1巻)。発見地は境川を望む低い場所で、耕作中に発見されたとの事である。現在は駐車場の脇に石碑のみが残っている。
1978年7月26日上矢部の御所之入(現在の1丁目)で発見されたものは塚上ではなく崖に横穴を掘る横穴(おうけつ)古墳群で2つ発見されています。(御所之入横穴遺跡調査団報告書) 出土 1号墳 長さ13m、男性2体(20、30歳前後)、刀子2点 2号墳 長さ14m、女性1体(40歳前後)
またこの古墳の裏山の頂に小祠があり、ここらを「おひめばたけ」と称していた。 「ある時代に美しいお姫様がさすらいの果てにこの地へたどり着き、はかなくもこの地で余生を送ったとされ、小祠に祀ったとも言われている。この時に12人の家来が「くぐつ師」に身をやつし随従して姫の最後を見送ったが、後もこの地に居を構え「12軒村」と言ったそうである。外から来たもので地着の者には受け入れてもらえず、とうとう本百姓にはなれなかった。今はだんだんと絶家してほとんど残っていないという事である。12の墓もあったそうだが、今は不明のようである。」(相模原民話伝説集より)
注)御所 (3)親王・大臣・将軍などのすまい。また、そこに住む人を敬っていう語。
横山党の武士矢部義兼の居館の土塁跡と言われている(写真左側土手)。境川段丘上に居館を構え、裏手に境川がめぐらした水田を望みみることができた。ここから西に向かう道を殿屋敷とも呼んでいた。義兼は建暦3年(1213)の和田の合戦で討死した。
鎌倉時代末の乾元2年(1303年)8月の板碑は、幅1.1m、高さ36cm、厚さ1cmの秩父青石製である。この板碑は元の和組の宿屋敷の墓地内にあった(現在の薬師堂の東側)。昭和5年(1930年)に地元の有志らによって現在の場所に祠を建立し、供養安置したものである。
五輪塔が数基見える。上矢部2-14あたり。 矢部義兼と関係があるのではと言われている。資料はどこにもありませんでしたで、ご存知の方はお教えください。 建保元年 (1213) 和田合戦で横山党(矢部義兼)滅亡
と書かれている板碑。
日天(にってん) 十二天の一。インドの太陽神スーリヤが仏教に取りこまれたもの。 妙法守護の大梵天王(だいぼんてんおう) 二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)。 千手観音の眷属。 金神(こんじん):富、繁栄 水神(すいじん):冷静、浄化
五輪塔とは、墓石や供養塔として平安時代から出現し、鎌倉、室町時代に各地に普及しました。インドの古代思想における宇宙を構成する地・水・火・風・空の五大要素を、五個の石を積んで表した塔だから、五輪塔と言われます。
上矢部の鎮守。建久年間(1190〜99年)にこの地に居城を構えていた矢部義兼によって「三獄社」として勧請されたのが、始まりであるとされています。例大祭(9月8日、現在は第1土曜日)には、珍しい笹湯の湯花神事が行われます。 矢部氏の裏鬼門にあたると言われている。本堂裏手には神輿が奉納され、右手には神楽殿がある。 神楽殿では毎年秋に村のお祭り(歌と踊り)が行われる。
4月8日のお釈迦様の日と10月22日はおばあさんの念仏がある。4月にはお堂の前に誕生仏を出しておき、それに甘茶をかける。また秋のアタリ日は33年に1回薬師様の御開帳があり、この時は薬師様の手から5色の布を引き出し、境内の角塔婆までのばす。本堂は安永9年(1780)に建立、木造薬師如来坐像と脇侍もその頃と考えられている。
薬師堂敷地内の六地蔵の横にある。お願いをしていぼが取れたら、赤い布などで俵の形を作り、中に大豆入れたものを3俵ほど供えた。関東各地で広まった。 六地蔵は寺屋敷から100年ほど前に移してきたものだという。 現在写真に写っている地蔵が着けている頭巾やよどかけは亡き母がこしらえたものである。
黄金色にかがやく金銀財宝の伝説がこの上矢部にもあるという。このことを歌ったいう唄がある。 「朝日さし 夕日かがやく 木の下に 黄金千両 漆万杯」 この財宝は町田市の小山田太郎という武士が埋めたと考えられている。小山田城の城主小山田有重の子息であり、ある資料によれば軍用金らしい。埋蔵した場所は御所之入あたりだがはっきりはしていない。この地の老人の家に不思議な縦穴があり、かたわらに榎の木があり、五輪塔の郡もあるという。
元文元年(1736年)建立。この地蔵は子供の祈願でお参りに来る人が多かったが、また人の難儀を背負うとも言い、諸病の人もお参りにきた。
道祖神は一般に村はずれの道路に立っていて災いなどを防ぎ村人に幸せをもたらす神として尊敬されてきた。ここにあるのは上矢部街道の脇と和組(境川沿い)にあるものである。上矢部には他にもあるとされている。
上矢部村を通る道なのでこのように呼ばれていた。また、矢部新田を開拓した人が境川の水を汲みに通ったことから「水汲み街道」とも言う。
製糸産業が栄えていたころ、農家で小枠にとった生糸を大枠に揚げて製品としていた工場を揚場と言った。紡いだ糸を一束づつ枠に巻いて束ねる。これで生糸という商品が完成する。
村の祭礼行事の一つで、1月14,15日の小正月の道祖神祭行事をいう。現在は御嶽神社横の子供広場で行われている。中世の宮中行事左義長が起源と云われる。地域の各戸から、正月の門松、ササ竹、しめ飾りなどを集め、14日夜、道祖神場で燃す。その燃える火を形容してどんど焼き、どんどん焼きとも地方的に呼び方がある。火は古代から神聖視され、その威力に神力を信じてきたので、今でもどんど焼きの火で、上新粉(米の粉)で作った団子を焼いて食べるとかぜをひかないと言われる。またこの火のあおりで、子供たちは書きぞめの紙を空へ上げるが、高く上がれば書道の手が上がるというならわしが各地で続けられている。
毎年9月の初めに行われる上矢部の祭礼。日頃の成果の歌や踊りを披露し、子供たちは夜店を楽しみに集まり、田舎の祭りらしく、にぎやかで暖かい雰囲気を感じる。
P 米軍基地(相模補給廠) 相模補給廠(ほうきゅうしょう)はもともと相模陸軍造兵廠のあと地を、戦後米軍に接収されたところである。上矢部でも一部の農家は土地を奪われてしまった。一方でここで働く労働者も多かった。雇用条件も当時は珍しく週休2日制で、職種によって賃金はいくらと決められていて、その中から自分の希望する職種を選ぶようになっていた。当時の日本では珍しい、コカコーラやチョコレートなども中で働く従業員は手にしていた。
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| 2004/10/11 | Mail to ando727@jcom.home.ne.jp |