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“時は金なり”というだれでも知っていることわざの起源は、古代ギリシャまでさかのぼるといわれる。18世紀のアメリカの政治家ベンジャミン・フランクリンの口ぐせもこの“タイム・イズ・マネーTime
is money”だったらしい。
PPV(ペイ・パー・ビュー=契約式有料放映)という“未知のテクノロジー”の本格的導入は、アメリカにおけるプロレスと時間とお金の関係を根本から変えた。
“レッスルマニア2”(1986年4月7日)は、ライブ・ショーの進行よりもPPV放映ワクのタイムテーブルが優先された実験的イベントだった。
ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスからの3元生中継のランタイムは3時間。各ロケーションの“持ち時間”は、試合と試合以外のセレモニーを含めてわずか1時間ずつというひじょうにタイトなスケジュールになっていた。
PPVのオープニング・シーンとなったナッソー・コロシアム(ニューヨーク)からの映像は、レイ・チャールズによる“アメリカ・ザ・ビューティフル”の熱唱。3時間番組の第1ブロックにはポール・オーンドーフ対“マグニフィセント”ドン・ムラコ、ランディ・サベージ対ジョージ・スチール、ジェーク“ザ・スネーク”ロバーツ対ジョージ・ウェールズ、ロディ・パイパー対ミスターTのボクシング・マッチの4試合がラインナップされた。
オーンドーフ対ムラコのシングルマッチは、オーンドーフがベビーフェースでムラコがヒールというシチュエーションだったが、試合は4分10秒というきわめて短いファイトタイムで両者カウントアウトのドローに終わった。
前年の“レッスルマニア”第1回大会でメインイベントのリングに立ったオーンドーフは、この日は第1試合という前座のポジションに甘んじた。オーンドーフは数カ月後には再びヒール転向を果たし、ハルク・ホーガンのライバルとしての道を歩むことになる。
第2試合のサベージ対スチールの一戦は、“ゴリラ男”スチールがサベージのマネジャーのエリザベスを好きになってしまうという恋愛ドラマの基礎編。80年代のWWF(当時)のソープオペラは、台詞のないパントマイムだった。
試合は、この時点ではまだヒールだったサベージが、スチールのタイツをつかんでの定番の反則フォールで速攻の3カウントをゲット(5分10秒)。サベージは2年後の“レッスルマニア4”で主役の座に躍り出ることになる。
第3試合のロバーツ対ウェールズのシングルマッチは、ロバーツが元祖DDTでウェールズからあっさりとフォール勝ちをスコア(3分15秒)。試合終了後はロバーツの“愛蛇”ダミアンがウェールズに襲いかかり、ウェールズは口から泡を吹いて失神した。このシーンは、現在では動物虐待として放送コードにひっかかる。
“ヘビ男”ロバーツは、いまでいうとちょうどアンダーテイカーと同じようなポジションのあくまでも“別格”の怪奇派だった。プロレスラーとしてのキャラクターと実生活の境界線を見失ってしまったロバーツのその後の数奇な運命は、ドキュメンタリー映画『ビヨンド・ザ・マット』(99年=バリー・W・ブラウスティン監督)に克明に描かれている。
第1試合から第3試合までの合計ファイトタイムは12分35秒。第4試合のパイパー対ミスターTのボクシング・マッチ(10回戦)は、両陣営の入場シーンとリング上でのイントロダクションに10分以上の時間が費やされたが、試合は第4ラウンド1分15秒、パイパーの反則負けという結果に終わった。
ニューヨークからの生中継映像は、予定どおり4試合で1時間というワクにしっかりと収まっていた。ビンス・マクマホンはこの日、実況アナウンサーとしてプレー・バイ・プレーを担当した。“王様”はまだ41歳だった。
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