同1月27日
ニューヨークのマジソン・スクウェア・ガーデンで統一世界ヘビー級王者ジョー・ステッカーがマスクド・マーベル(モート・ヘンダーソン)を2−0のストレートで下し、同王座を防衛。
同1月29日
“インターナショナル・トーナメント”が閉幕。グレコローマン・スタイル部門はアレキサンダー・エイバーグが優勝。キャッチ・アズ・キャッチ・キャン部門はエド“ストラングラー”ルイスが優勝。優勝賞金は5000ドル。
同4月24日
ルー・テーズLou Thesz(本名アロイシアス・マーティン・ルー・テーズAloysius Martin
Lou Thesz=幼名ラヨス・ティアスLajos Tijas)がミシガン州バナットに生まれる。
同5月(日時不詳)
世界ライト級王者アド・サンテルがサンフランシスコで“異種格闘技戦”をおこない日本人柔道家トクゴロー・イトー(伊藤徳五郎)、タロー・ミヤケ(三宅多留次)に勝つ。サンテルは“ワールド・ジュードー・チャンピオン”を自称し、その後、1921年(大正10年)に来日し、講道館柔道に挑戦。
同7月4日
ネブラスカ州オマハで統一世界ヘビー級王座をかけてジョー・ステッカーとエド“ストラングラー”ルイスが対戦。4時間52分のマラソン・マッチの末、ドロー。1万8000人という記録的な大観衆を動員。ルイスの消極的なファイトにブーイングが集中した。
同7月12日
エド“ストラングラー”ルイスのマネジャー、ビリー・サンドーがルイス対フランク・ゴッチの対戦をアピール。1000ドルの保証金を用意。
同7月18日
ウィスコンシン州キノーシャのセルズ−フロート・サーカスのエキシビション・マッチでフランク・ゴッチがボブ・マナゴフ・シニアBob
Managoff Sr.と対戦。試合中、ゴッチは足首を骨折。
同7月25日
『ミルウォーキー・ジャーナル』紙に掲載されたエド“ストラングラー”ルイスのインタビュー記事が物議をかもす。ルイスは「フランク・ゴッチが引退し、ジョー・ステッカーはわたしとの再戦を拒否した。わたしが統一世界ヘビー級王者を名乗る」とコメント。
同12月11日(場所不詳)
ジョー・ステッカーがジョン・オーリンJohn Olinとの試合中に肩を負傷。試合続行不可能でオーリンが判定勝ち。王座移動は認められなかった。
1917年
“黄金のギリシャ人”ジム・ロンドスがプロ・デビュー。
1917年4月9日
ネブラスカ州オマハでジョー・ステッカーがアール・キャドックEarl Caddockとのタイトルマッチの判定を不服として統一世界ヘビー級王座を返上。3本勝負の1本めはステッカーが先取(1時間22分)、2本めはキャドックがフォール勝ち(1時間40分)。ステッカーはこの判定を無効として3本めを試合放棄。キャドックは第一次世界大戦のためヨーロッパへ出征。統一世界ヘビー級王座は空位となる。
同5月1日
イリノイ州シカゴでフランク・ゴッチがリオ・パーデロLeo Pardelloを下す。この試合は観衆1万人を動員。これがゴッチの現役最後の試合となる。
同5月2日
シカゴでエド“ストラングラー”ルイスがジョン・オーリンを下し“世界ヘビー級王座”を獲得。プロモーターは前年、ステッカーに勝ったオーリンを王者と認定しこのタイトルマッチを企画。フランク・ゴッチが特別レフェリーをつとめた。
同12月16日
フランク・ゴッチが死去。死因は梅毒とも尿毒症ともいわれる。享年39と享年41のふたつの説がある。
同12月17日
ニューヨークで開催された“インターナショナル・トーナメント”決勝戦でバルデック・ズビスコがエド“ストラングラー”ルイスを下し優勝。世界ヘビー級王者を名乗る。
1918年2月8日
アイオワ州デモインでアール・キャドックがバルデック・ズビスコを下し、世界ヘビー級王座を統一。
同3月1日
ニューヨークのマジソン・スクウェア・ガーデンでジョー・ステッカーとバルデック・ズビスコが対戦。ドローに終わる。
同3月19日
マジソン・スクウェア・ガーデンでエド“ストラングラー”ルイスとバルデック・ズビスコが対戦。ズビスコの“頭突き攻撃”でルイスが反則勝ち。
同4月26日
マジソン・スクウェア・ガーデンでエド“ストラングラー”ルイスとジョー・ステッカーが対戦。2時間のタイムアップ・ドロー。
同5月8日
イリノイ州シカゴでアール・キャドックがバルデック・ズビスコを下し、統一世界ヘビー級王座を防衛。
同5月10日
ケンタッキー州ルイビルでエド“ストラングラー”ルイスがバルデック・ズビスコを下し新設“世界ヘビー級王座”を獲得。
同6月21日
ネブラスカ州オマハでアール・キャドックがエド“ストラングラー”ルイスを下し統一世界ヘビー級王座を防衛。しかし、ルイスはその後も“世界ヘビー級王者”を自称。
1919年(日時不詳)
ビリー・ライレーBilly Rileyがイギリスで世界ミドル級王者となる。ライレーはのちの“スネーク・ピット=蛇の穴”の道場主。
同年2月24日
アイオワ州スーシティーでおこなわれたジョー・ステッカー対バルデック・ズビスコの試合中、観客が“フェイク、フェイク(八百長だ)”と暴動騒ぎ。警官隊が出動。
同3月3日
イリノイ州シカゴでエド“ストラングラー”ルイスが2時間の死闘の末、ヘッドロックでジョー・ステッカーを下す。
同3月5日
統一世界ヘビー級王者アール・キャドックが戦地ヨーロッパから“引退”をアナウンス。ニューヨークのプロモーター、ジャック・カーリーはバルデック・ズビスコを新チャンピオンに認定。 |
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同3月21日
ニューヨークのマジソン・スクウェア・ガーデンでバルデック・ズビスコがエド“ストラングラー”ルイスを下し、2派の世界ヘビー級王座を統一。観衆は5000人。
同5月9日
ケンタッキー州ルイビルでジョー・ステッカーがバルデック・ズビスコを下し世界ヘビー級王座を獲得。
同6月14日(場所不詳)
バルデック・ズビスコを下したジョン・ピーザックJohn Pesekが“世界ヘビー級王者”を名乗る。
同9月23日
“聖人”エル・サントEl Santo(本名ロドルフォ・グスマン・エルテスRodolfo Guzman Huertes)がメキシコのトゥランシンゴに生まれる。
同11月3日
ニューヨークのマジソン・スクウェア・ガーデンでジョー・ステッカーがエド“ストラングラー”ルイスを下し、統一世界ヘビー級王者に認定される。
同11月3日
初代“絞め殺し”イバン“ストラングラー”ルイスがウィスコンシン州リッジウェイで死去。享年59。ルイスは引退後、リッジウェイ市役所に勤務しながら、民主党員として活動した。
1920年1月16日
ネブラスカ州オマハでジョー・ステッカーが2時間の死闘の末、別派の“世界ヘビー級王者”ジョン・ピーザックを下す。
同1月30日
ニューヨークのマジソン・スクウェア・ガーデンでジョー・ステッカーがヨーロッパから帰還したアール・キャドックを下し、統一世界ヘビー級王座を防衛(試合時間は2時間5分30秒)。興行収益は8万ドルを記録。ステッカーは2万5000ドル、キャドックは1万5000ドルのファイトマネーを手にした。
同3月2日
マジソン・スクウェア・ガーデンでエド“ストラングラー”ルイスがジム・ロンドスを下す。敗者ロンドスは“新しい時代のスーパースター誕生”と注目を集めた。
同4月16日
ニューヨーク(詳細不詳)でジョー・ステッカーがエド“ストラングラー”ルイスを下す。約3時間のマラソン・マッチだった。
同4月19日
マサチューセッツ州ボストンでジョー・ステッカーがジム・ロンドスを下す。この試合でジム・ロンドスの人気が急上昇。
同12月13日
ニューヨークの米陸軍71部隊アーモリー(71st Regiment Armory)でエド“ストラングラー”ルイスがジョー・ステッカーを下し、統一世界ヘビー級王座を奪取。試合タイムは1時間41分。ルイスが統一世界ヘビー級王座を獲得したのはこれが初めてだった。“プロレス政治学”では、この試合がルイスとマネジャーのビリー・サンドーによる談合体制のスタート地点とされる。
1921年
スポーツ・ライター、アル・スピンクAl Spinkが新聞紙上でプロレスを告発。「ニューヨークのプロモーター、ジャック・カーリー(本名ジャック・アーマンド・シュルJacques
Armand Schultz)がその手下のレスラーたち、ルイス、キャドック、ステッカー、ズビスコらがプロレス市場を不当に独占している。トラスト=談合カルテルだ」と警告。マーティン・プリスティーナMartin
Plestina、クリス・ジョーダンChris Jordanら実力派レスラーたちがニューヨークの世界タイトルに挑戦できない矛盾を糾弾した。
同1月14日
ニューヨーク州ユティカでジョー・メルセヴィッツJoe Malcewiczが元世界ヘビー級王者アール・キャドックを下し“大番狂わせ”と騒がれる。
同3月4日
故フランク・ゴッチのかつてのライバル、スタニスラウス・ズビスコが約11年ぶりにヨーロッパからアメリカに遠征。ニューヨークでジョー・ステッカーを下す。
同3月5日
世界ライト級王者アド・サンテルがアメリカ、ヨーロッパのレスラーを帯同して来日、講道館の柔道家らと対戦。サンテルはレイジロー・ナガタ(永田礼次郎)にTKO勝ちし、ヒコオ・ショージ(庄司彦男)とは引き分け。
同5月6日
ニューヨークの米陸軍22部隊アーモリー(22nd Regiment Armory)でスタニスラウス・ズビスコがエド“ストラングラー”ルイスを下し、統一世界ヘビー級王座を獲得。
同9月22日
ニューヨーク州体育教会New York State Athletic Commissionがプロフェッショナル・レスリングの公式ルールを制定。ヘッドロック、トーホールド、シザース・ロックなどのサブミッション=関節技を禁止へ。
同11月8日
ニューヨーク州体育教会コミッショナーのウィリアム・マルドゥーンがプロレスの公式ルールを緩和。関節技の使用を認める。
同12月10日
“伝説の男”ファーマー・バーンズがスカウトした新人、弱冠20歳のチャーリー・ハンセンCharley Hansenがテネシー州ナッシュビルでスタニスラウス・ズビスコと対戦。3時間タイムアップのドリー。バーンズは「ハンセンをフランク・ゴッチ級のレスラーに育てる」とコメント。
1922年
イギリス・ダートマスの米海軍兵学校に就学後、デトロイトの大学(法科)に通っていたガス・ソーネンバーグGus Sonnenbergがプロ・フットボール・チーム、オハイオ・タイガース(オハイオ州コロンバス)に入団。ソーネンバーグはデトロイト・パンサーズ(ミシガン州デトロイト)、ロードアイランド・スティームローラーズ(ロードアイランド州プロビデンス)でプレー後、プロレスに転向。
同2月21日
マサチューセッツ州ボストンでポール・バウザーPaul Bowserがジョー・ターナーを下し、世界ミドル級王座を獲得。
同3月3日
カンザス州ウィチタでエド“ストラングラー”ルイスがスタニスラウス・ズビスコを下し、統一世界ヘビー級王座を奪回。プロモーターはトム・ロウTom Law。 |
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