☆電極調整は難しい!
(お断り…私は一旦退院しましたが、調整がうまくいかず再入院しました。一部記憶が混同しておりますので、出来事の入り繰りがあるかも知れません)
「退院」を焦っていたため、いろいろと不都合が次々と起きた。
今回の調整編は「手術後の退院まで」「自宅での葛藤」「再入院・再調整」「再退院と通院」そして今オペを迷う方々に「DBSをするべきか、しない方がいいのか…DBSの判断をするために」の5部構成にてお送りする。
※手術後の退院まで
1.
10Aの担当看護師は「超ベテラン」、安心だ。規則には少し厳しいが、患者の心をわかる人。取りあえずナースセンターの前の部屋。そうか一応「重体か」、と思ったが2週間位で一番遠い部屋になった。体調はオン・オフが相変わらずひどい。退院まで波があり、なかなか一定の体調にはならない。
薬はかなり減量した。メネシット・コムタン・ペルマックスが主体となり、その他の薬は投与中止した。しかし投与量はあまり変化なかった。
歩ける時間はある程度あったので、積極的なリハビリとクリスチャン仲間の集まりに「外出許可」を取って出掛けた。オフさえ外せばわりと体調は良かったので、PT(理学療法士)の指示もあり、調子良いときは1キロ程歩いた。
2.
精神症状のこともあり、「電極調整はゆっくり、薬もゆっくり」の体制。しかし、問題が起こった。外出中に歩行がおかしくなった。突然走ったり、止まったりを繰り返すようになり、早めに病院へ戻ったこともあった。薬が多すぎた、電極が強すぎる、の二つが原因と思われ、まず薬を減らしたがオン・オフが激しくなり、更に「すくみ」も始まった。
このような状況で退院の話が丁医師から出た。職場復帰をしたいと考えていた私にとり、まさに「渡りに船」だったが、手放しでは喜べない状況になってきた。
3.
退院は10月下旬となった。甲医師は「焦らなくてもいいのでは…」と言っていたが、結局その通りだった。しかし、職場復帰を目指す気持ちが慎重にという気持ちを上回った。
これも「精神症状」のひとつだったかも知れない。やはりプロの判断に任せるべきだった。
これから起こる「戦いの幕開け」となることを知らず、退院日の数日前から起こった体調不良を不安に思いつつ、「退院」の二文字が私を長野に連れ戻した。あまりうれしくない退院となった。
※自宅での葛藤
1.「さて、少し休んでさあ仕事、のはずが…」
退院してしばらく自宅静養し仕事に行こう、と考えていた。職場に挨拶に行き、これからの段取りについて話し合った。再出勤届や診断書など、手続きの書類を準備など、「仕事に戻ること」ばかりを考えていた。今思えばかなり焦っていた。
退院して2回調整に通院したが、甲医師は「短い時間から始めれば、就労は可能」ですと言ってくれた。鬼に金棒である。しかし…(このお話は改めて)。
再出勤には産業医のOKが必要なので、ルンルン気分で出掛けた。ところが、産業医からストップがかかった。「日本、いや世界の名医」の診断書を反故にした、このことはこの産業医に対する不信感を生む結果となるとともに、電圧調整後に「精神症状」があることを証明し、今後の対人事部交渉に大きな禍根を残した。しかし、この時は「いったい何が?」といった状況で、全く情勢がつかめなかった。
2.どうして…
先ほど2回通院したと書いたが、いずれの調整時も電圧は退院時の倍近く、その時は確かに調子が良くなるが、数時間後には体調が崩れ歩けなくなることもしばしば。通院して体調がおかしくなるもどかしさが大きなストレスとなって来た。ご存じの通りPDにとりストレスは大敵、体調はどんどんおかしくなり、家の中でも歩くどころか、立ち上がったりすることすら出来なくなった。恐らく職場に限らず病院に対しても「不信感」が募り、体も心もバラバラになっていた。
毎日が憂鬱となり、治まっていた「性的亢進」症状が少しずつ始まった。出歩かない分ネットなどの「アダルト」番組を、また見始めた。ただ、以前と異なっていたのは、見ていても、心の中にばかばかしさが生まれて来て、だんだん見なくなって来たこと。
3.もうダメ、やり直し
「職場復帰」は少しも前進せず、自宅での療養もままならなくなり、八方塞がりの状況になった。ベッドの上で焦りばかりがつのる毎日。「退院しなければ…」と、思うようになってきた。甲医師にメールしたが「精神的な問題でしょう」と、一蹴されてしまった。ケアマネさんに相談、現在の様子を「動画」で撮影しメールに添付して再度送ったが、なしのつぶて。どんどん精神的にも追い詰められ、腹据えて「このままでは、家庭崩壊します。再入院させて下さい」と。
今回はすぐに返事がきた。「そこまでおっしゃるのなら、止むを得ませんが入院していただきます」。相変わらずの振るえの中「一筋の光が闇を照らす」ような気がした。
☆再入院・再調整
1.「ブルブル」「動かない」状態で入院
入院前日から、以前もお世話になった知人宅に泊まり、翌日朝入院したが、ここで少しお話したいことがある。それは以前S病院の脳神経内科で医師として働き、私を甲医師に紹介していただいた方のことだ。
この方、体調を崩し数日前にS病院に入院していた。もう退院できる状態だったが、私の入院時に「私を元気付けたい」と、退院を一日延ばして私を待っていてくれたのだ。
私の入院を見届け、翌朝新聞とテレビカードを持って私の部屋を訪れ「心配いらないから…」と言って出て行った。これがこの世で最後の姿になろうとは…。
さて、本題に戻る。とにかく過去2回の入院に比べ格段に悪化した状況。しかし担当看護師は小柄ながらパリッとした女性。今回の入院で何回お世話になったか分からない。こんなに「成長」した私を何回あの小柄な体は一人で担いでくれたことか。「○○さん、運がいいわね」とは、前回術後担当してくれた看護師の弁。
10A病棟で初めて2人部屋だった。同室は「奥さんが同郷」の某マスコミOB。よく話される奥さんなので退屈しないで良かったが、こちらの体調が全くついていかなかった。とにかく、体はほとんど動かず、なのに振るえが収まらない。要するに手術前といい勝負、まさに薬を抜いた状態。夜中はついにエース「しびん(尿器が本名)」登場。あまりの情けなさに、今回せっかく持ち込んだパソコンを出す気力もない。
甲医師からは夫婦共々さんざん怒られ、悔しさのあまり「全日ハンスト」を決行したこともあった。ほぼ一日、何も食べなかったが、悔しさが食欲に勝った。食べ物は紙に丸めて、全部ゴミ箱に捨てた。ささやかな、抵抗。
そんな時甲医師の回診で「○○さん、一からやり直そう」と言われ、何のこっちゃと思った。
2.電源切断(その1)
その翌日、気分転換にパソコンを出していた時だった。丁医師が来て「少し(IPGを)調整します。少し動き悪くなるけれど、あっご飯食べにくかったら看護師さんを遠慮なく呼んで下さい」と京ことばで言い、調整した。体の中で「ヒュウ」という感覚が走った。
やりかけのパソコンを振るえがひどくなり持てなくなった。持ったものも置くに置けない、誰かを呼ぶにもナースコールが押せない。どうしよう、と思ったが何も出来ない。
「魔の時間」の始まりである。
ガタガタと振るえ、体が全く動かない。何とかパソコンを台の上に置き、寝ようとしたが、姿勢を変えられない、足が上がらない…。これはオペの時に楽をしたからその報いだ、祈ろうと思った時、今日の担当看護師が顔を出して「だいじょう…」と言っているうちにナースコールを押した。汗が全身を濡らし、顔からポタポタと落ちた。汗すら拭けない。
3.電源切断(その2)
別の男性看護師が来て、2人で対応してくれた(2人でないと、動かない!)。着ているもの全てとシーツを交換する。まずは衣類から…と言っても、ただでさえ動かないのに、汗をかいてかつものすごい振るえがあるため、簡単にはいかない。一人が押さえ、もう一人が着替えをする。もう大変、私だって自分のことだから何とかしたいのだけれど、何にも出来ない。着替え終わったらシーツの交換。それが終わる頃にはもう衣類は汗でビショビショ!
とりあえず「水入り」で昼食。これまた自分では何も食べられず、全部看護師に口に入れてもらった。「料理の味なんか」てな感じで、とにかく「胃に入れた」。
「水入り」したら「水出し」だが、汗でトイレの「ト」の字も出ない。
そして着替え第2回戦。今回は先ほどの手順に「+汗拭き」。その途中丁医師が様子を見に来たが「頑張って!」…、で終わり。
とかしているうちに、振るえが一旦収まって来た。電源切ってから約4時間が過ぎていた。ほっとしたら、間髪入れずに知人がお見舞いに来てくださった。精神的にも不意打ち食らった感じだったので、その来客は天からのみ使いに思えた。
お帰りになった途端に、また振るえが来たが、1時間位で収まり、だんだん周期が短くなって、夕食の頃に「大運動会」は幕を閉じた。
今日1日を総括すると「DBSは固縮に効く」が実証された。でも、あ〜しんど、疲れた。
4.リハビリテーション
ここで、リハビリについて触れよう(大運動会を思い出して、疲れてしまった…)。
私は入院全期間を通じて「理学療法(=PT)」を、今回の調整入院時には加えて「作業療法(=OT)」のお世話になった。PTではストレッチや歩行を、またOTでは「作品」の制作はあまり出来なかったが様々な患者さんとお話ができた。この病院の入院生活は、リハビリでもしていないと「ヒマ」で退屈する。
突然ですが、ここで一首。
「迫り来る、オペと調整苦しいが、内なるファイトで乗り切る大海」
(チームO)
分かる人には分かる一首でした。
S病院には散歩コースがあり、初夏には蚊が大歓迎してくれる。「血の気ある方」献血に行かなくても大丈夫!!
5.薬の調整
今回の入院では「薬」も徹底的に調整した。「精神症状」再発防止のため、アゴニストは完全に止めた。途中「コムタン」「エクセグラン」も追加したが、服用効果があまり出なかったこと、複数の薬を服用していると、どの薬の効果が出ているのかわからなくなることから、「メネシット」に一本化することにした。また前から服用していた「リボトリール」「マグミット」それと「セルシン(5mg)」を継続し、入院前に転倒し突き指した際もらった「ロキソニン」とその副作用を抑えるため「ムコスタ」、そして睡眠導入剤の「ユーロジン」の7種類とした。更に就寝前には服用薬をやめ、塗り薬を塗り夜中にトイレで起きた際、2時を境に「ロキソニン」と「ユーロジン」を使い分けた。
これらの調整は入院したから出来たこと。
しかし振るえと「すくみ」はなかなか治らず、メネシットは7錠を切ることは最後まで出来なかった。でも甲医師は「焦らない。もし外出するときは、8錠もOK」と言ってくれたので、外出時に予備として8錠持つことはあっても、実際には極力7錠を守った。
6.信仰のこと…(せっかくだから)
私は聖書を信じる者、「信仰」を持つ者として、今回のオペと体験記の関係を考えたい。
聖書を信じる者は「特別の聖なる人種」ではなく、その辺にいる全く「普通未満」の人間。「未満」だから、自分でダメと分かっている、自分で善行したくても出来ない。
この世を生きていくのに、人間は「完璧にしたい」とか「○○さんより…」等考えるのが普通である。聖書を信じる者はそんなことどうでもよくなる。意味ないから、自分ですることをやめ、神様にお願いしてしまい自ら考えることをも放棄してしまう。「祈って、委ねて生きる」、これが基本。聖書を読んだって、「は〜?」と思うのが当たり前、なので読んでも、「理解」しようとはしない。と言うより出来ないが正しい。
出来ないことは誰にもある。また出過ぎたことをしたとか、中には嘘ついてしまうことだってある。こんな時には「ごめんなさい」と言えるかだ。また将来のことは残念ながら誰にもわからない。自分がどのようにいつ死ぬか、なんて考えたってわからないから、「神様にすべてお任せ!」と言ってしまう。
では神様はどこにいるのか?どこ見てもいない、だからいない、と考えてしまうのが普通。正解は「どこにでもいる」ではないだろうか。見えないものを信じられない、それが人間の「常識」。しかし「見えないものを信じられたら」、何か見えないけれど「大きなもの」に引っ張られるような感じがしたら…、それも「愛」を持って…。英語に「受動態」という表現があるが、主語は「God=神」なので、人間は「愛を持って○○させられている」もの。そして人には「生かされる目的」がある。
PDもその人に与えられた「試練」ならば、その「試練」は神が何か目的を持って与えられたもの。とすれば、私はDBSを受け、その「体験記」を書くことが、神が私に与えた目的かも知れない。天国に行ったら、神様に聞いてみよう。
7.苦難と喜び
この入院は、様々な事柄を経験し様々な人々に出会った。みなそれぞれ異なった苦しみや失望感に苦しみつつ、明るい人生を歩もうという希望を持っていた…と言いたいが、残念ながら一概にそうではなかった。
@Aさん( 入院時に同室 )
・某放送局制作担当者。彼はPDではなかったかも知れないが、他の病気を発症した際持病の薬を主治医の判断で中止、病状悪化し入院。自力では何も出来なかった。
・ご本人とは話せなかったが、毎日奥さんがお世話に通院されていたので、奥さんと様々なお話をさせていただいた。「へ〜」というようなお話がたくさんあり、私もびっくりするばかり。
・この方は、ご家族の強い希望もあり「自宅療養」を選ばれ、私と同じ日に退院された。その後、ご連絡はお取りしていないが、きっと素晴らしいご家族に囲まれ幸せな人生を歩んでおられるだろう。
ABさん( オペ時に6A病棟でいっしょ )
・某市小学校職員。首か腰を痛め、脳外科病棟でいっしょだった。入院時には、パソコンのネット接続をお手伝いした。消灯を過ぎてもパソコンに興じ、看護師からお目玉を食らったことも。
・退院後復職を目指したが、すでに後任者が着任しており前職復帰は困難。配置転換か退職かの選択を迫られた。主治医とも相談し、配置転換を選択した。決断がなか
なかできず、再三相談にいらした。
・「仕事をどうするか」元の職場に戻れず、悩みに悩んだ。現在も復職できない私に取っても、他人事に思えないケース。でも、もともと明るい方だから大丈夫だろう。
BCさん(私の一週間後にDBSを受けた)
・私のすぐあとにDBSを受け、振るえやオン・オフ等PD症状が消え、既に職場に復帰され、元気に仕事をされている。
・たびたび、お見舞いに来ていただき、楽しいプレゼントもいただいた。
・近頃は連絡お取りしていないが、「腰が痛い」と言っておられたのが心配。術後腰の痛みを訴える方は少なくない。
このような事例はすべてご紹介出来ないが、私の入院生活を支えていただいたのは、このような方々の「人間模様」と、決して人生を諦めることのない「生き様」である。私もただの人間、めげそうになることばかり。そんなとき、このような方々の「生き様」が私を勇気づけ、PDに対する闘争心を与えていただいた。
この場をお借りし、ここにご紹介出来なかった皆さま共々お礼申しあげたい。
8.精神症状?
12月までは比較的落ち着いていたが、年が明けると苛立つことが多くなった。今思えば、わがままとも思える行動が多々あったと思う。もともと気が長い方だ、と思っていた。どなったり、怒ることも少なく、比較的柔和な性格だった。それが攻撃的性格に変わってしまった。何か気に入らないことを我慢できなくなり、怒りだすことが多くなった。
自分では「なぜ、どうして」と思い込み、周囲が自分をないがしろにしている、と考えてしまう。この時困るのは、自分に変なことをしている意識がないのである。
今も時折Appleの掲示板には、困った書き込みがあるが、恐らく書き込みしている方はこの事実に気が付いていない。
私たちはこのような「精神症状」の素質を全員が持っている、このことを決して忘れてはならない。
9.おぞましい経験
ここで、私自身のおぞましい体験談を書こうと思う。
これはCDを制作し、各地から「歌って欲しい」との依頼が多くなって来た頃の話。
その時酔っぱらっていた私は、ふと携帯で「アダルト」サイトを見た。なぜかわからないが見てしまったのだ。この時は「しまった」との思いしかなく、数か月過ぎその代金未納だ、という電話が来た。それも仕事中に…。軽はずみなことをした、と思い支払いをした(いわゆる「振込め詐欺」に当選!)。その後、仕事の手詰まりも抱え込んだのが加わり、次第に「出会い系サイト」にのめり込んだ。最初はメールのやり取りに終わっていたが、そのうち本当に会いたい、と思うようになってしまった。もちろんお金が必要だから、妻には「仕事で失敗した」と嘘を付いていた。
そのうち、帰宅がどんどん遅くなり、土日を問わず出かけるようになった。ファミリーレストランで夜を明かし、会社の車まで使うようになった。
妻は「おかしい」と感じ、何度も問い詰められたが、のらりくらりとかわしていた。しかしある時、それまでの嘘がばれて、実は…という話をして謝った。
しかし、この感情は止まらず、妻は悩み一時は自殺までしようとした。自分も止めようと何度も考えたが、おかしいと思いつつ止められなかった。
ある日、例の如く、夜出掛けた私は大きな物損事故を起こした。だが不思議なことに「すり傷」ひとつなかった。このことを知り合いの医師、主治医とも話し転院、あるアゴニストを止めた。それから1年位その衝動は続いたが徐々に収まった。
10.退院
こんな状況が続き、2008年は暮れた。
明けて2009年、簡単には退院できそうもないことは、ナースセンターに近い部屋のままのことから、はっきりしていた。
年をまたいで、私は振るえが収まる時間を見ては、夜明けの写真を携帯で撮っていた。
S病院は眺めが最高、その朝日は朝6時頃から見ていると、それはそれは美しい。羽田から離陸する飛行機や、北は新宿から南は横浜付近まで見える。漆黒の暗闇を挟んで、夜景と太陽とのコントラストが言葉もないほどに美しい。
朝は振るえが止まらず写真はないが、正月にはデジカメを買い込みその後振るえが少しずつ止まるにつれ、自慢の作品がたくさん出来た。また「富士山に沈む夕日」は、また異なる趣を見せる。
「いつまで続くのか、この状態」。しかし体調は回復するまで時間を要することを、私は悟り、「早く退院を」との考えは潰えた。
1月の終わり、甲医師の回診。「○○さん、落ち着いてきたわね。そろそろ部屋を変わりましょうか」の言葉に、「えっ…」。それは「退院近し」を意味する。
もう自分ではできない、と思った時、主が助けて下さる。
2月中頃に「退院OK」が出て、21日退院した。
しかし、そこから新たな問題が起こる。
※再退院と通院
1.S病院の外来
退院後、しばらくは自宅で静養していた。通院は2〜3か月に一回。
甲医師はDBS調整を一手に行っていた。3月までS病院には私の主治医だった丁医師と、もうひとりの医師がいた。その医師は横浜の出身病院に戻り、今は月一回のDBS調整外来に非常勤として甲医師の助手をしている。また丁医師はお目出度だった。こちらも出身病院に戻って産休中らしい。
このような状況でも、毎月増えるDBS調整患者の調整外来をほぼひとりで切り盛りする甲医師。本当に敬意を表したい。
2.その後の調整
S病院のDBS調整外来は、毎月土曜日に一回行われる。今回の退院後は、3月、5月、7月そして10月に行われた。電極調整と薬の減量は徐々に行われ、なかなかその効果は表れない。さすがの私も少し苛立っていた。そのことを見透かすように、甲医師は私には聞かず、妻に様子を尋ねた。私が口を挟もうものなら「あなたには聞いていません!」と一喝された。妻も常に私と行動を共にしていないため、分からないこともあるが、私は我慢して話さないことにした。退院後半年間は術後に始まった首の振るえがひどく、すくみもあった。更に10月に入り、足の運び等動きが悪くなって来た。L‐Dopaは6.5錠に固定してあったが、動きが悪ければ「増量」も、と妻には再三再四言われた。私はよほどの時(遠出の外出等)以外は6.5錠に固執した。その理由は次の項で。
さて、10月の診察は24日だった。この日は、PDのネット仲間が「オフ会」を企画し、そこに参加した。聞けば本来前日の予定を私の診察に合わせていただいた、とのこと。初めてお顔合わせする仲間もおり、ほっとするひと時だった。
診察は遅くなることが予想されたので、見越して5時に行ったが、まだまだ時間はあり薬が切れて振るえもひどくなった。最初は診察まで我慢しておこうと思ったが、7時を回り「限界」と判断し、半錠飲んだ。車椅子に乗ってブルブル振るえて汗かいて…。その状態でようやく「○○さん」と呼ばれた。3か月振りだったので、この期間中のことをいろいろ聞かれた。私は、何か話せば「黙っていなさい」と言われるだろうと思い、妻が話すのを聞いていた。その後「よく3か月我慢したわね」と、誉められた。電極調整をじっくり行ったが、妻は首の振るえのことを再三訴えたが、都度「ちょっと待って、いっぺんには出来ないから…」と怒られた。そのやり取りを冷静な気持ちで聞いている自分がいた。
今までなら必ず口出ししていたのに、その焦りが起きない。そして杖をついて診察室を出た。周囲の視線を感じた。そして奇跡(甲医師に言わせれば当然かな)が起きた。あれ程困っていた振るえがなくなった。
さすが、日本の名医、約束は守る。
3.仕事のこと、現在の様子
退院後すぐに職場へ行き、「いつでも復職OKです」と報告したが、人事部はOKしなかった。おそらく電極を調整後間もなく行ったので、若干「ハイ」だったと思う。その後も産業医はOKを出さず、何回言ってもダメなので、それでは「ありがとう!」と、休むことにした。
私の職場は福利厚生にハチャメチャ厚い。中には詳しくご紹介出来なくて残念な「とんでもない決まり」や「はっ〜?」と言ったものまで、様々な逸話に事欠くことのない職場である。そこで「休め!」と言っているのだから、止む無く休む。
割り切ってしまえば、気楽なもの。それでは「ゆ〜っくり休ませていただきま〜す!!」
…というわけで、体験記を書く時間も「止む無く」あるので、しっかり書いてしまいました。
さて、この体験記はこれにて…「一見落着」ではなくて、これからDBSをお考えの皆さまへ「ワンポイント・アドバイス」を差し上げます。
あくまでも、個人的体験の上でのお話であることを、お忘れなく!!
※「う〜ん? するべきか、止めるべきか、それが問題だ…」とお悩みの皆さまへ
体験記「特別付録」
ふみくんの「DBSを考えよう!」
※これまで私の体験記をお読み頂き、ありがとうございました。
DBSを受けるか否か、これはかなりの決断力が必要…ではありません。
要は以下の点をしっかり理解すれば、それほど悩まずに決められます。
1.決めるのは「あなた自身」
・以前書きましたが、このオペは「ねばならぬオペ」ではなく「どうしましょうオペ」なのです。すなわち「脳内出血」とは異なり、「オペしないと、死ぬこと」はありません。ですから、患者も医師も悩むんです。
・周りの患者さんの意見はあくまでも「参考」、自分はどうしたいのか、症状と今後の人生設計を合わせ、こうしたいから受けたい、と主治医にはっきり相談すること。
・くどいですが「先生、どうしましょう?」のうちは、主治医も薦めないと思います。
あくまでも「あなた」自身が決めて下さい。
・因みに私の決め手は「薬を減らしたい」「振るえを止めたい」の2点でした。
2.さて、どの「症状」を…?
・DBSは「オール・マイティー」ではありません。つまり「完治」は出来ない、ということです。
・近頃のPD解説書には、ほとんど手術部位・手術方法と症状の対比表(効く・効かない)の一覧が載っています。PDには何でもかんでも効くわけではないこと、を必ず理解した上で決めましょう。「手術編」に書きましたが、「あなたは手術に適さない」とか、「その必要はない」と、検査入院時に決められます。逆に言うと、検査入院なしでそのままオペ突入は有り得ません。自分で納得の行く説明が受けられない病院は、個人的には「如何なものか」と考えます。
・「どうしたいか?」の裏側にある「こんなになっちゃうかも…」という危険も覚悟して下さい。特に過去の術例の多寡は大いに参考になります。日本国内でも数十の病院でDBSは行なわれていますが、術例が多いということは「信頼されている」「様々な術例を経験していて、安心」とも言えます。
3.今、受ける必要はあるか?
・今後「iPS細胞」の応用等、様々な医学の進歩が見込まれます。本当に今がその時か迷うところです。しかし日本では新しい臨床医学が認められるまで数十年かかることは間々あることです。その間に「自分の症状」は、確実に進みます。今、あなたは「我慢出来る」「我慢出来ない」か、この点は議論あるところと思いますが、これもご自分で決めるしかありません。
4.DBSは「オペに始まり、調整は続く」
・「調整編」の通り、DBSはオペして「おしまい」ではありません。必ず「IPG調整」が必要です。更に、私もこれからですが「電池交換」が必ずあります。
・調整期間はまちまち、私のように1年を超える場合も少なくありません。特にアゴニスト等による精神症状が出た方は、オペ自体がNG(オペしない)ことすらあります。
しかし、ある意味事前に出た方が良いかも知れません。オペの後で取り返しのつかない場合だって考えられます。もっとも、その場合は針を抜けば良いのですが、手術して、何かおかしくなって、また手術では精神的にたまったものではありません。
・必ず自分の目標はクリアされる、と固く信じて調整して下さい。
5.最後に
・薬は基本的に減りますから、アゴニスト含め服用量は主治医と良くご相談ください。特にジスキネジアがある方は、要注意です。
・周囲に自分を「客観的に見てくれる人」がいることは、必要です。ご自分ではわからない変化にいち早く気付きそれに対応することは、このオペの成否を決めます。
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