2003.08.17 最終更新

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父の介護の体験談

はじめに
 このサイトの介護・福祉のファイル作成を引き受けてから2年と4ヶ月になります。
一度は介護・福祉にアップしていた、父を介護したときのことを書いた文章。それをその後ウェブ上から外したのは、この重いテーマにしっかりした自信が持てなかったからでした。
 私がデザインを担当した今回のリニューアルで、サイトの各コンテンツを丁寧に読み返すことになりました。
そして充実した内容にもかかわらずパーキンソン病患者を介護する文章がないことに気づき、介護する側の文章を載せることも意味があると思えたのです。
 私の願いは、一人でも多くの方にパーキンソン病がどういう病気かということを知ってもらうこと。
そしてパーキンソン病だった父の闘いを無駄にしたくない、父と過ごした私の時間をもう一度甦らせたいという思い。

 あなたの心にこの私の思いが届きますように。また、あなたの暮らしのヒントになれば嬉しいです。


初稿 2000年3月27日

 「あーびっくりしたねえ。どうしてあんなところで転んだの、お父さん!」と母。
なぜ転んだのか分からず説明できない父。
 父が62,3歳の頃、2,3歳の孫を自転車の後ろに乗せて走行中に転倒した時の様子です。
その時の痛さを息子は成人した今でも覚えてるので、ひどい転び方だったのでしょう。

五十歳代−パーキンソン病という病気を知らなかった頃

・字がだんだん小さくなり思うように書けなくなる。
・そろばんをはじいていて突然手が跳ね、そろばんをはらわれてしまう。
・勤務先の方に「どこか悪いんじゃないの?」と言われ、父は退職を促されたと感じました。
・通勤電車で便を漏らしたことがありました。
 父の名誉のため一言
 『父はすごく厳格な人でした。
 便を漏らするなんて信じられませんでした』

父はこれらのことを老化現象と思っていたので辛いのに働いていました。

父の歩く様子を見て知り合いが病院で検査するように言ってくださいました。
もしそう言ってくれる人が居なかったら、どうなっていたでしょうか・・・。

パーキンソン病と診断。その後退職。
父と母、そして私もこの時まで
パーキンソン病という病名を知らなかったので戸惑いました。

六十歳代−パーキンソン病と判ってから

歩く

 主治医の「歩いてください」の指示通り、朝夕、犬を連れて散歩。
規則正しい生活を送っていました。
 「元太(犬)に引っ張ってもらってたんだよ。ケツを蹴飛ばして前へ進ましてたんだ。
こうして今でも歩けるのは、あいつのお陰だ」亡くなる少し前に言っていました。
※犬の散歩が、一歩が踏み出しづらくなる父の歩行の助けになっていたと、この時 知りました。

指先を使う
 台所に立った事の無かった父が毎朝、流しの片づけをするようになりました。
指先のリハビリのためで、茶碗を洗う指先の動きでその日の体調が分かると言っていました。
※水を流しっぱなしでしたが、コレもリハビリのためと水道代のことは忘れる事にしました。

前向き
 父は病気に負けないぞ、という気持で日々を過ごしていました。
「目標!英検2級合格」を目指して毎朝ラジオ英会話講座を聞いていました。
でも、鉛筆を持つ手に力が入らなくなり2級の試験は受けられませんでした。

父がつらい事は家族もつらいと感じたこと
 父の話題はいつも病気の症状と薬の事だけで、母と私は楽しい話もして欲しいと思ったものです。
だんだんと父の顔の表情が硬くなり、憂鬱な表情で相手をじっと見るように変わってきました。
側にいる者も憂鬱になりました。

家族以外の人との交流
 遠くに住む父の従兄がパーキンソン病だと知り、それまで殆どお付き合いをしていなかったのに、たまに電話でお互いの症状の話をしていました。
「○○さんが歩きが止まらなくって、電信柱にぶつかったんだってさあ」
父がそう言ったのが印象に残っています。
※当時父は、パーキンソン病の症状やお薬のことを詳しく知りたかったのかもしれません。
今のように家にいながらインターネットで患者さん同士の交流・情報交換が出来ていれば、父の励みになり「一人じゃないんだ!」と、どれほど力になったことでしょう。

苦労した排便
 朝の排便の良し悪しで一日をどう過ごせるか決まると言っていました。
※家にトイレが二つあったので不便を感じませんでしたし、父も遠慮しないで思うように使えました。

父、殴られる
 病院へ行く途中、JR山手線の池袋駅ホームで見知らぬ男性にげんこつで顔を殴られました。
※相手をじっと見る症状が相手を威圧すること、いわゆる「眼を飛ばす」状態と勘違いされたのかもしれませんが、酷い話です。

七十歳代−父と私

1990年(平成2年)5月、母が亡くなりました。(享年六十六歳)
亭主関白だった父(72歳)と、それを横目で見ていた末っ子の私(35歳)の付き合いが始まりました。
「体が思うように動かない父」と「子育てをしながらこれから何か始めようとしていた私」でした。

時間が掛かるけど
 「時間が掛かって面倒だから、お前に遣ってもらった方が早い」と私を呼ぶ父に
「シンドイのはよく分かってるけど、しなくなったことはもう出来なくなっちゃうよ。
靴下を履くのもリハビリだからがんばって欲しい。
やってみて出来なかったら私を呼んで欲しい」と。
そのことを言ってから、
私は父を励まし、父は靴下を自分で履けた時、とても喜んでいました。

待つ
 父のひとつの動作が終わるまで、なるべく待つようにしていました。
また、見ないようにしながらも、いつも気にかけていました。
私のしたことは、きついと思われた時があったと思います。
 でも父は、寝たまま食事をした事が一度もありませんでした。
昼間もオムツをしたことがほとんどありませんでした。
父の尊厳は守られたと思っているのですが。

デイサービス
 週に一回 朝9時から午後3時半まで、父のいない時間ができ、ホッとするひと時ができました。
そういう気持ちって、介護の手を抜くような気がしていけないことだと思っていました。
でも、帰って来た父に「お帰り、父さん、どうだった?」と笑顔で聞けました。
父も笑顔で応えます。
 笑顔で話すのがあたり前でしょうが、毎日一緒にいた頃はそれが出来ない私でした。
ゆとりが出来て、そういう気持ちになったのではないでしょうか。
 次第に父もカレンダーを確認して身支度を自ら進んでするようになり、お洒落をして出かけるようになりました。
父は帽子が似合い、冬はハンチングや毛糸の帽子。
夏はパナマ帽をかぶって出かけました。
 ※嫌がる父を説得して、デイサービスを利用することにして良かったと思っています。

特別養護老人ホーム入所の手続き
 幻覚・幻聴の症状が出てから、夜中に起こされるようになりました。

 まだ一人で散歩が出来る頃だった。
「○△(私のこと)ちゃん!虫がいるんだよ、ホラ」
「いないじゃん、いないよ!」
「いるんだ!一杯!大変な事だ!」
黙って出かけ、バルサンを買って帰って来た。
虫なんて居ないのに父さんは本気だ!
 父がパーキンソン病でこのような症状が出た事を保健婦さんに相談をしました。
すると、「妄想ですね、妄想が出たら精神科で診てもらわないとダメよ」
と軽い応対に、私は本当に驚きました。
 それを信じて、精神病院を下見に行きましたが、通院の事を考え、自宅から近い精神科を併設した病院の神経内科で診てもらうことにしました。
 父が亡くなりインターネットをするようになってから、パーキンソン病の患者さんやご家族のメーリングリスト(インターネットの電子会議室)に参加をして、父のような症状が出た患者さんが精神科で診てもらい、パーキンソン病による精神症状と分からずに治療を受け、パーキンソン病の症状が悪化するケースがあることを知りました。

※決断する時、幾つかの情報を元に納得し判断する事が大切ではないかと思います。

・このままだと私も父も倒れてしまう。
・親しくしていたハンディキャップを持つお子さんのお母様に
「両手を使っても出来ない事は、人様(公共)にお願いしたほうがいいよ」
・医療関係の仕事をしている知人から
「逃げ道を作っておきなさい。何かの時ここがあると思うと、乗り越えられるよ」
・「娘の家をたらい回しにしては いけない」と知人。

※「船頭は一人」と、私は自覚しました。
アドバイスを下さった方々に感謝しています。
特別養護老人ホームの入所の書類を用意するのが一番辛かった。

>費用の事
 父の場合、特別養護老人ホーム入所の費用がタダ同然でした(月5万円前後だったと記憶)。
それは、
・父の収入は年金のみ。
・父には家(苗字)を継ぐ者がいない。(娘ばかりだったから)
・一緒に暮らしている私に収入が無い。(私が嫁いでから両親と同居した)
では、主人の収入を元に算出するのかと思うでしょ?
いいえ、主人は全く関係ないのです。(世帯主は主人だけど主人は父と血縁関係では無い)

>書類上家族では無くなる
 書類を見たら入所に際し父の住民票を特別養護老人ホームに移すとなっていました。
寂しい気持ちになりました。

>血縁者の承諾
 特別養護老人ホームの入所に際し、父の血縁の人たち(父の妹、父の子供 (私の姉たち))に私が父の介護ができない理由をわかってもらい、またその人たちも介護ができない理由を書いてもらって入所を承諾してもらいました。

※システムが変わったので現在の費用や書類の事は分かりません。

>施設を選ぶ
 デイサービスの施設に依って、父の好き嫌いがありました。
特別養護老人ホームを選ぶのに優先させたのは
・父にとって居心地がいいところ
・私たちが行きやすいところ
※父が嫌っていた施設は、父の病気を理解してくれなかったところです。
その原因の一つは、施設を利用させて貰ってるというひけめから
父の病気のことについて、私があまり詳しく言わなかったところにあると思う。
ちゃんと言えばよかったと反省しています。

>心の準備
 もし私が介護に疲れたら父がショートステイを利用するか入院するかしかないというようなギリギリの毎日でした。

 特別養護老人ホームに入所しませんでしたが、こうなった時はどうするか。
入所について、父と話し合いました。
父の返事は「入所するよ」でした。子を思う親の気持ちからでしょう。
父が一番心配していたのは、費用のことでした。

1997年(平成9年)享年七十九歳

シンプル イズ ザ ベスト

 当てにして、してもらえないと、してくれない事を憎んでしまいます。
憎しみや怒りはエネルギーをたくさん使います。
その矛先をちょっと変えてみたら、いままでよりずっと楽な事が分かりました。
 スリッパを履かないとかトイレにマットを敷かないなど、我が家なりに工夫してシンプルに生活ができるように工夫した事。

絨毯(敷物)
 縁につま先が引っかかるラグマットや玄関マットなどは転倒防止のために敷かない。

衣類の収納
 自分で衣類を用意できるように、押入れの中に本棚のような棚を入れ収納。

ズボン
 ズボンの上げ下ろしの毎に介助が要らないように、ズボンのウエスト部分をゴム式にしました。

トイレ
 しっかりしたパイプ式の手すりをトイレに設置し、父の部屋にポータブルトイレを置きました。
広い部屋での用足しは向きを変えやすく使いやすかったようです。

医療用のベッドが便利
・手すり(柵)が頑丈で、ベッドから落ちる心配がない。
・頑丈な手すり(柵)は、寝起きするのによき支えになりました。
先々の事を考え、電動式のベッドをリース。介護する側のためにも丁度良い高さだった。
(症状の変化にあわせてベッドを替える事ができるのでリースのほうがいい)

食事
・肘掛椅子 : 座っていると横に倒れる様に傾くので、傾く側に座布団(綿の座布団が良い)を入れました。
・医療用の柄の太いスプーンを使いました。
・エプロン:手が震えこぼすので、ビニールのエプロンの裾をお盆の下に入れると食べ物をこぼしても掃除が簡単でした。
・みんなと同じ食事を摂る : 野菜を細かく刻んだ食事は、
「何を食べてるか、分らない」 「鳥の餌みたいでヤダ」と言って嫌いました。
父は食べる事が好きで歯が丈夫だったので、家族と同じ食事でした。
大福とトンカツとお刺身が大好きでした。


・簡単に履けるように、マジックテープ式のもので、かかとが痛くないようにエアー入りにしていました。

間口半間の利点
 半間の廊下は、車椅子や介添えするには狭いのですが 父が一人で移動するには安心して歩ける幅でした。(体が傾いても倒れずに壁で支えられる)
【私が思うこと 】
※家の廊下は、車椅子が通りやすい様に1m幅だと便利。(介護する側としては半間よりも少し広い方が便利)
※デイサービスや病院の大浴場の浴槽は広すぎて手すりが無いので患者に不安感を与え又、患者のプライバシーを尊重する意味でも半間幅の一人用の浴槽が望ましいのでは。(半間幅だと介護する側が体を洗ってあげやすい)

 患者さんが自分でできることを減らさないように、介助しやすいように、安心して暮らせるように環境の工夫が必要かと思います。
 また、お互いが感じていることやこうして欲しい事などは心に留めておかずに話し合った方が気持ちが楽になるかと思います。
 父は部屋の中が散らかってると歩きづらいと言っていました。
足元注意、整理整頓を心がけていました。

心と言葉

変わる心 「話(わ)と和(わ)」

【 お医者さんが教えてくれた 「人の話を聞くこと」の大切さ 】
 父は月に1回の通院日をとても楽しみにしていました。
それは、お医者さんが父の話をゆっくりと聞いてくださったからです。
父はとっても嬉しく、安心した様子でした。
 また、先生は私の話も聞いてくださいました。
お陰で私は胸のつかえがなくなり、穏かになりました。
 いつの頃からか私も父の話を上の空じゃなく真剣に聞けるようになりました。
【 主人の母が教えてくれた「和みの時間」 】
 主人の母が時々遊びに来ました。
主人の母と私の父と私の3人でお茶を飲みながら談笑。
 話をする時間が出来てから、父の表情が明るくなり、声を出して笑うようになりました。
私も明るくなりました。

 そうなるまで時間がかかりました。もっと早く気付きたかった。

変わる心 「・・・のお陰」
 父の介護をしたからでしょう。
自分勝手な私が「お陰さまで」と、心の底から言えるようになりました。
 人に話しても、何をしても、自我が捨てきれず、いつも文句ばかりだった私に主人が
「般若心経でも読んでごらん」と。主人も読んだことがあったのでしょう、本棚にありました。
 私が『色即是空 空即是色とは』なんて説けるはずがありません。
私なりにほのかに感じた事は【自分が先にあるんじゃ無い】という事です。
みんながいるから自分があり、こうして居られるのはみんなのお陰。
父がいてくれたから今の私があり、今の私があるのは、父のお陰。
 また、こういう時間に立ち止まり、自分を見つめ、分析してたのかもしれません。

ありがとう
 洋服の袖を通す手助けをしていた時でした。着終わっても何も言わない父に、
 「父さん、ありがとうと言ってほしい。
デイサービスでも手伝ってもらったら、ありがとうって言って。
そうすればきっと手伝う人の励みになるし、父さんも助かるから」と言いました。
 「ありがとう」の代わりに「どうも」とか「ごめんなさい」とつい言ってしまいがちです。
当たり前のことをしているのですが 「ありがとう」の一言で報われることがたくさんあるのです。

父の呟きから
 ホームでする手の運動の “結んでひらいて、手を打って結んで ”の遊戯を父は「子ども扱いされているようだ」
また、ホームの職員の幼児に接するような口調も「幼稚園児じゃあるまいし」と言っていました。
そばで聞いている私も気持ちの良い言葉づかいではないと感じました。
 その反面、入院先の看護婦さんの言葉づかいには感心し、私も勉強になりました。
父に洗濯物を畳むお願いの時、
「○○さん、今お時間空いていますか?この洗濯物を畳んで頂けないでしょうか?」
綺麗な言葉は気持ちの良いものです。
もしこれが、「ねえ、ちょっと洗濯物を畳んでよ、○○さん、いいじゃない」おまけに肩をポンと叩かれたらビックリしちゃいます。
 自分より年上の人に接するマナーが必要と思います。

 パーキンソン病はどのような病気? の「これからどうしたらいいのか」にあるように
患者同士のコミュニケーションをとると同時に、患者と家族の心のケアも行なっていく必要性があると強く思います。



父のオムツを取り替える時、ついカッとなりお尻を叩いてしまった私。
そんな自分が大嫌いになった。

「じいさんの オムツ開けて 玉手箱 叩いた心に 鬼見たり」


 話を始めると以前話してた内容の続きだった。
父はその空間でゆっくりしてたんだろう。
時の流れの違いを感じた。優しくなっていく私がありました。

「細い声 肩に手を添え 聞き入れば 優しさ伝わる 温もり見つけ」


 母が亡くなってから父の介護が始まった。
次第に症状が重くなっていく父。
在宅介護が病人にとって一番なのは百も承知しながらも苦渋の選択
健康のためを言い訳に入院を決定。
しかし父は最期まで家に居たかったろう。

「介護して 迷うに 迷う 子の心」


 幻覚の症状が出た。
空想と現実を行ったり来たりしていた父。
たまに来た姉が父の語った内容を笑った。仕方ない事だ。
父はその時、姉が何故笑うのか、理解できなかった。
 いつも一緒に居る人と、そうでない人の違いを感じた。

「親を看る せつなさ 子供に 違いあり」


お正月の晴れた日に
山茶花の花咲き乱れる道を父の車椅子を押しながら散歩。

「あの垣根、曲がろうね」と、父娘。


 ああすれば良かった、こうすれば良かったと、悔いた時がありました。
忘れようとした自分がありました。
今想うと全部良い思い出です。
あの時があってよかった。

「消しゴムで 消しても残る 跡を見て 消す事無かったと 文字を重ねる」


父の病気に対する姿勢は、人生の手本としていつも私の心の中にあります。
主人と二人の息子は私を支え、父に優しくしてくれました。
「子供叱るな来た道だから、年寄り笑うな行く道だから」と
主人の母が教えてくれました。
手を差し伸べてくれた姉と友人たち。

 みんなに、ありがとう。



2003年8月17日見直し、加筆
原稿 ・ファイル管理 Iris 

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