2003.07.01更新

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Dr.安芸 by Almond

私は、1965年頃に17歳(高校3年)で、発病した。足が前に出にくくなり、歩くと脚の前の筋肉が痛くなり疲れた。校庭でしゃがむと踵が地面についたままなので、変だなと思ったのを覚えている。

大学に入学し通ってはいた。朝起きてしばらくは、普通に動けるが、うちを出る頃にはもう歩きにくくなっていた。
中央線、地下鉄を乗り継ぎ、駅で降りる頃はとっても不安だった。歩いて5分ぐらいの学校にたどり着けるだろうか?

クリニックや病院の整形外科に いくつも行ったけれど、何ともないと言われるか、偏平足のせいと言われたことも。脊椎が癒着していると言われたこともある。それでたくさんのお薬を処方され、偏平足用の中敷を作ったことも、ただ入院していたこともある。

徐々に字も書きにくくなっていた。
4年になって、体育の授業を免除してもらおうと 大学の診療所に行った。診療所の医師は、私の歩き方を見るなり「すぐに神経内科で診てもらうように」と言った。そのとき初めて、神経内科の存在を知った。1969年のことだ。

その医師が書いてくれた紹介状を持って虎ノ門病院に行った。21歳になったばかりだった。
入院して、脳血管造影(首の血管に造影剤をいれた)などの検査をした。CTやMRIのなかったころだ。
診察室でも狭い中では、普通に歩けたし、症状も出揃ってはいなかった。

安芸先生は当時、神経内科の部長で 私に検査結果について説明なさった。「今回(私の病気は)検査の網に引っかからず、何の病気か分からなかった。引き続き観察します。」とおっしゃった。
それまでの医者とは全く違い、“分からなかった”ということを 正直に認められたのだった。そのときから私は、安芸先生に大きな信頼を寄せることになる。

それでもこの時期、原因が分からないまま、歩行困難を抱えて通学し、生活するのはとても辛かった。

25歳のとき、(その2年前に大学の同級生だった夫と結婚していた)やっと診断がつき、お薬を飲み動けるようになって、夫も私もすごく喜んだ。L-ドーパが単剤だったので1日3グラムものんでいた。

診断がついたときも安芸先生は私に「あなたには長い間ご苦労をかけて」と謝られた。先生にはじめて会ってから4年後だった。私は絶望的になって、定期的には通院していなかったので「私が病院に来なかったから」と返事したのを思い出す。

それから長い間にいろんなことがあった。ノイローゼになったことも、スペインに初めて海外旅行に行ったことも 夫が敦賀に単身赴任していたこともある。
スペインに行くと話したときに 先生はこうおっしゃった。「スペインというとセルバンテスの国です。私の恩師が医者になろうと思うものは医学の勉強の前に人間としての勉強が必要だと言われた。『ドンキホーテ』を読むようにと。それで私は読みました。」

私はいまだに読んでいない。はずかしい。

夫の単身赴任のときは、先生の前でワーワー泣いた。先生は一生懸命に慰めてくださった。「手紙が書けるじゃありませんか」とか。「日本海側を通って、旅行が出来ますよ」とか。それでも私が泣き止まないので、「戦争が終わって、シベリアから帰ってきたら私の婚約者は、亡くなっていたのですよ」と。私に呆れてショック療法を試みられたのだと思う。

それでもそのあとでお会いした時、先生は「いまどきこんなに純情な奥様がいるとは感動しました。ご主人が羨ましい」と言ってくださった。やさしい先生だと思う。

私が「時々、口が回らない」と訴えた時には、私をちょっと見て「よく回っています」とおっしゃった。思い出しては笑ってしまう。

先生が私の主治医だった30年(時々中断はあったけれど)、先生は、いつも私を支えてくださったと思う。先生にお会いすると、不安はいつも安心に代わった。

先生は神経内科の草分けとも言える方で、医学以外の著書もたくさん出版された。クリスチャンで平和思想家でもある。


10代で発病し暗い気持で絶望しきっていた私は、医師が患者を対等な人間として待遇することが、患者にとってどんなに大切なことか、プライドを取り戻して生きるためのどんなに大きな力になるかを安芸先生から学んだと思う。

原稿 2001/5/8作成 2003.06.01介護・福祉から移行
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