・山陽本線の
C62 

     
〜防長路に九州寝台特急を追う A 〜
          
            
八重と100円引き      
                                       
平成15年9月20日→平成16年8月27日改定

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  昭和36年の暮れのボーナスを当てにして、ベル・ハウエルのデュオ・ズームという8mmシネカメラを購入しました。 それでこの年の12月以降は、8mmとスチルの二刀流となったので、三脚を持たない時には、どちらかとせざるを得ず、出張の序でという場合には、幾ら何でも三脚帯同という訳には行かないので、どうしても『本格的な』撮影旅行に旅立たなければならないという気になりました。 またその頃から、内容が逐次充実して来た『鉄道ファン』誌に、撮影地ガイドという『重宝(=安直)』な記事が連載されるに及んで、綿密な時事調査の必要もなくなり、『よし、行って見よか』と気軽に行けるようになりました。
  それを実行し始めたのは昭和38年以降なので、まだ山陽本線のC62の頃は、『車窓より』眺めて、後は5万分の1か2万5千分の1の地図で調べ、後は足で稼いでの撮影でした。 機関区では「何? あんたんとこには、汽車がねえだかい?」とか「汽車の写真なんか撮ってどうすんだい?」とか「常磐線、ボロだ、ボロダって書がねでくんろよな。この前、機関車撮らして呉っつうがら、撮らしてやったらよオ、まあだ、こんてなやづ使ってから、常磐線は酷でえもんだって書がてちてよオ。 クラのわげえもんがおーごる(怒る)わ、おごるわ。 それによオ、やあーる気なぐさせっちまーんでよオ。 そおたごど書がねでくんろよなア」などと言われたものです。 私自身、ボロだとか汚いと思う機関車や客貨車があるとは思っていても、そのようなものに『貴重な』フィルムを消費する事は無く、撮影を避けたし、何分にも『文士』でも『投稿子』でもなかったので、「いやあ、汽車が好きだから、本物を持って来るわけにも行かないので、写真撮って、眺めて満足してるんです」・・・と答えましたが、今となって、何で『本当に汽車の写真など撮りまくった』のだろう? と疑問に思います。 尤も、今でも汽車の写真を撮ったり、乗りに行ったりするのですから、死ぬまでその答えは出ないのではないかと思います。

  さて、昭和36年12月8日、どうも改めて昭和××年12月8日というと、大東亜戦争の始った大詔奉戴日(たいしょうほうたいび:天皇陛下が戦争を始めるぞ!との詔(みことのり)を発布せられた日)という感覚が消えませんが、この日初めて、三田尻=富海間でベル・ハウエルを回して山陽特急を撮りました。その時は三脚を持参しなかったので、8mmだけになりましたが、其の行程で、厚東(ことう)=西宇部(今の宇部)間や、大道=四辻間ではスチルの撮りました。 其の頃、小郡=雑餉隈(ざっしょのくま)間に、交直両用の近郊電車モハ421系電車が走り始めて間もない頃でした。
  昭和36年の年も押し迫った12月29日、事故でダイヤが大幅に狂って運転されていた時、信号停車していた、下り特急「さくら」に2時間57分遅れのディーゼル準急「あきよし」が追突し、「さくら」の14輌編成の客車12輌が損傷してしまったのです。 20系客車の予備車が不足したため、下り側6輌がオハネ10系軽量客車(寝台車)で代用された。 良い塩梅と言っては甚だ不都合であるが,折りしも宇部に仕事があって、その行きしなに下関まで足を伸ばして先行し、下関に到着する「さくら」を撮る事にしました。 「さくら」はその後の「みずほ」「あさかぜ」「はやぶさ」よりも2時間ほど早いので、夏で無いと、例の戸田=富海=三田尻(現:防府)で撮る事は困難なのです。 下関でも7時50分頃の到着ですから、1月18日では未だ薄暗く、コンディションは良いとは言えませんが、その時撮った写真です。

  

  昭和37年1月18日 下関駅 特急「さくら」 C6236(広二)
  前半はオハネ10系軽量寝台車で代用


  こんな編成のため、私は勝手に「八重桜」と命名したが、これは何処にも通用しないでしょう。 夏季では無いので、空調の必要は無いのですが、外観上見劣りがするので、この車輌の寝台は100円安く、上段で600円としてありました。 因みに、昭和38年6月1日から20系となって、やっと1人前となった「みずほ」も、10系客車で運転されていた時は、100円値引きの特急でした。 今にして思えば、乗って、寝台券を確保して置かなかったのは残念ですが、現実はそれ程懐具合に余裕があった訳ではなく、常に蒸気機関車と同じく、火の車だったので、当時はそのような考えは浮かびもしませんでした。
  その時の仕事は、宇部の『ちまきや』という地方デパートに納めたエレベーターの検査だったのですが、据付工事の作業者からは午後から来て下さい、という依頼でしたが、そこはそれ、朝早くつく夜行の急行で下関まで行ってしまって、広島付近では撮りずらい「さくら」を下関駅で撮ろうと考えた訳です。 しかも、乗車券は小倉まで買ってあり、帰りがけ国鉄小倉工場によって、日本に3輌しか残っていないB20のラスト・ナンバーB2015を見て、撮って帰ろうという計画だったのです。
  そこで、「さくら」を撮ったら、折り返し。準急「宍道(しんじ)」で山陽線を上って西宇部、そこから宇部線で琴柴に行けば、ゆうゆう間に合う勘定でした。 ところが、「さくら」は一番南側の線に入り、「宍道」は一番北側の線に到着するのです。 そして、8時というのは、丁度出勤のラッシュアワーで、下関といえども、ホームから南側の出口に繋がる地下通路は、出勤の社員(と言うより工員さん)で一杯となり、私だけが急流の河に逆らって上ろうとするように、思うように歩けません。 そこに「準急『宍道』号、間も無く発車致します。 お乗りの方はお急ぎ・・・」と放送されています。 『おかしいな? 確か発車は8時10分(位)だったと思うが・・・』と思いつつも、必死になって奔流に逆らい、やっと空いた階段を駆け上って、ドアを再開してもらって、最前部のデッキに飛び乗りました。
  やっと、ホッとしたら、何だか操車場の一番外れのうらぶれたような線路を、タタン、タタンと進んで行くではありませんか! 山陽本線の上り線って幡生操車場を挟んでこんなに離れたところを通るんだっけ? と思う間も無く「♪♪ お待たせいたしました。この列車は山陰線経由準急『宍道』号で御座います。厚狭、西宇部、小郡方面には参りませんのでご注意ねがいます。次の停車駅は川棚温泉、川棚温泉で御座います♪♪」 やったア〜。『宍道』は有名な分割・併合をを行なう列車で、下関で別れ前半はこの山陰本線経由で石見益田(現:益田)に行き、後半は山陽本線で小郡、其処から山口線で山口、津和野などを通って、石見益田で山陰本線経由の前半分と再び合流して、出雲市、松江、米子から伯備線を南下して倉敷、岡山、宇野線の宇野に行く列車なのです。 そんな事た百も承知している『鉄道マニア』も人の奔流に逆らって1人地下道で奮闘したらすっかり頭に血が上って、大失敗をしでかしたのでした。
  すぐ、車掌に申告すれば、次の綾羅木(あやらぎ)で貨物列車と交換のために、先着する『宍道』が貨物列車を待つので、機関車(D50だった)か少なくとも『ヨ』(車掌車)には乗せて貰えた(ただし、幡生操車場のとんでもない所で下ろされてしまう可能性大)だろうけれども、恥ずかしいので直ぐに申告しませんでした。
  そうしたら、生憎と、直ぐに『検札(今でいう:車内改札)』が始まり、仕方が無いから『誤乗』である旨申し出ましたが、乗車券の行き先が小倉で、途中下車印(下関などの)も無く、しかも西宇部に戻る、と言うのでは、普通の車掌では、この『不思議な乗客』の行動は理解出来なかったのでしょう。「それじゃ、次の駅:川棚温泉で下車して、その旨告げて、下関=西宇部間の往復乗車券を購入して下さい。 本列車の乗車券と準急券は不要です」という扱いで、当初目論んでいた『下関=西宇部間の薩摩の守』は不首尾に終わりました。 琴柴に着いたのは午後2時位となり、今日で仕事が終わって早めに帰ろうと思っていた作業者どもに、不機嫌な仏頂面をされましたが、当方としては文句の言えた義理ではありませんでした。 その後私は、当初の計画通り、国鉄小倉工場を訪問し、B2015を撮影出来ました。 
  この帰りは、10月から走り出したキハ82系の「かもめ」を弾む事とし、少々苦々しい思いは残りましたが、今後の反省の資料としましょうと心に刻みました。 その時の帰りの乗車券と「かもめ」の特急券です。


   
  昭和37年1月19日 B2015(小倉工)を撮影
  した帰途の乗車券と特急券  


  〜瀬戸内の海を入れて九州寝台特急を撮る〜

 
8mmシネカメラを買って、それを持って撮りに行くことにしましたが、スチル・カメラと両刀使いをするには、三脚を持ち歩かなければなりません。 ただ、その頃は、次から次へと汽車は来るので、これは8mm、これはスチルと列車を選別すれば、特に三脚は無くても良い訳です。
 しかし、8mm(ビデオでもそうですが)では三脚を使わないと画面がぶれて見るに耐えないものとなります。 また、スチルだってがっちりと画面を決めて撮る場合には三脚が欲しくなります。また欲張って、モノクロとカラーの両方を一度に撮りたい、などと考えたときには、三脚にパラレル保持のブラケットを使って、エア・レリーズをにぎにぎしたり色々工夫したものです。昭和47、8年頃になると蒸気機関車はすっかり数を減らしたので、カメラの2台3台は当たり前となり、中には千手(せんじゅ)観音も一目置かなければならないだろうというような、5、6台を三脚のこの足、あの足に自在ブラケットで固定し、自分の首に2台ぶら下げて、弁慶の七つ道具も顔負けの兵(つわもの)も現れました。 尤もその時代には、私は『引退』してしまいましたが・・・・・。
 私の場合は、Nikon−F1台、同Photmic1台と広角35mm、一寸長めの100mm、135mm交換レンズ、Bell & Howellの8mmシネカメラと昭和37年からは、やっと発売となった松下電器製の3吋オープンリールの(勿論モノラル)ポータブル・テレコです。まさか、出張時にはこれだけ持って行く訳には行かないので、スチル・カメラ1台に50mm標準レンズ、又は8mmシネカメラのみです。三脚は遠慮せざるを得ません。
 という訳で、愈々『本格的に』撮影に行かなければならないな、という気になりました。それも大阪で最初に鉄友となったO.Iさんが「C10がえろう少のうなりましたな。以前は奈良にもようけおってチョコマカうごいとったんですがなア」とか「D50もえろうへりましたな。糸魚川の奴が米原に来よって、E10が近々のうなるようでんな」という情報を伝えてくれるし、S.M君も「わしゃア幼稚なんですかね、大きいカマがゴツウすきなんですわ。山陽線もあと1年くらいのもんでっせ」と嗾(けしか)けます。それに金沢電化(福井=金沢間)で余剰となった金沢区のC57が名古屋に転出しては関西本線のC55を駆逐し、また山陰本線の浜田区の6輌しか残っていないC54を全て淘汰する勢いです。 
 そんな訳で、昭和38年は(未だ大阪『営業所』に昇格した事業所に勤務)3月から4月に掛けて九州・・・よくそんなに休暇がとれますね?・・・・3月上旬までは新規のビルのオープンが相次ぐので、休みも無く『月月火水木金金』で夜を日に継いで仕事をせねばならぬので、その代休を纏め取りして、両端を公休と合わせれば10日位は、嫌な顔されずに休めると言う特権(?)を活用して実行しました。
 九州は主として筑豊の炭鉱の旧式な輸入機関車の活躍ぶりや、南薩鉄道(その後の鹿児島交通:鉄道線廃止、加世田駅跡のバスセンターに鉄道博物館がある)、宮崎交通などの蒸気機関車の休、廃車体を撮って来ました。帰ってすぐ、前述のように金沢からのC57の配置で、浜田のC54が無くなるというので、急遽、4月、5月のゴールデンウイークに山陰から山陽を一周する計画を立て、その時、既に大阪営業所勤務となっていたS.M君と一緒に撮影旅行をする事にしました。 このS.M君は山登りが好きで、相当な域に達していたようで「旅館なんか泊まるの贅沢ですワ。キャンプ道具を持って、野宿しながらやりましょうや。その方が、朝早いのから撮れるよってに」という訳で、3〜4人用の天幕を(彼が)背負って、写真機なども重装備で出掛けました。

  


   その旅行で使用した「山陰周遊券」

  昭和38年4月30日、何曜日だったか忘れましょたが、一旦会社に出勤したと記憶していますが、午後『九の字を結んで』ドロンを決め、岡山→新見に向かい、重装備を背負って布原信号場まで歩く事にしました。後年D51の三重連で有名になった布原はその当時全く無名で、訪れるマニアは愚か、知っている人も殆ど無かったでしょう。 また、当時は旅客列車も伯備線は新見区のD51、芸備線は芸備線監理所のC58が牽引していたので、布原で客扱いはしませんでした。 そのため、そこに行くには新見か備中神代(びっちゅうこうじろ)から数kmの坂道を、えっちらおっちら歩かなければなりませんでした。 タクシーにでも乗れば、行ってくれたでしょうが、仕事以外でタクシーに乗るなどという考えは全く起きませんでした。
  そこで、歩く事にしたのですが、既に相当な雨が降っていて、傘をさしながら数kmの上り坂を歩く元気も無く、新見の市街を外れた、線路の左側の丘陵の田圃か畑の空地に天幕を張って今宵一夜を明かす算段としました。本当は直ぐ横の、小さな神社かお寺の祠(ほこら)で、寝れば面倒は無いのですが、賽銭泥棒などに間違えられて半殺し(当時は半殺しで済んだかもしれないが、今の中学生にかかったら、完全に撲殺されてしまうでしょうから、現在の日本は南アのヨハネスブルク並みの危険国だと思います)に会ったら堪らないので我慢したのです。 そうすると、蝙蝠(こうもり:洋傘・・・・・今、『こうもり』と言っても若い人にアンブレラの事だと通じないようですね)をさした高校生くらいのお嬢さんがやってきて、「こんな所で野宿なんかしないで、私の家に来て泊まりなさい」と親切に誘ってくれました。 そのご好意に甘えるのは、幾ら何でも厚かまし過ぎるので固辞すると、「それじゃ、このお堂に入って休んで下さい。その方が楽でしょうから」と言ってくれ、その後、バケツ(?)に入れた味噌汁をお椀と共に持ってきてくれました。
  翌日も、午前中は雨が残り、結局、布原までは到達せず、その近辺でD51やC58を撮って、芸備線で備後落合に行き、木次線の02型2軸のレールバスで出雲坂根に行き、426列車を撮って、宍道駅の山陰本線と木次線の分岐点の付近でキャンプし、翌朝、好天に恵まれ、ここで撮った木次線のC11(区間運転)と金沢から入ってきたC57の写真は、私の『傑作』の一つとなる出来栄えとなりました。 木次線の426レと言うのは、午後2時20分くらいに出雲坂根に入ってくるC56がたった1輌、それもオハユニ61型で3等(その当時は2等と名称は格上げになっていた)郵便、荷物合造車(ごうぞうしゃ)で、座席定員は36人しかない客車を引っ張ってくる、まあ、日本一のミニ列車でした。 昭和42年9月末でディーゼル・カーに取って代られました。
  こうして、その後、浜田機関区に行って、6輌中4輌がまだ使われていたC54を撮り、石見益田(今の益田)から山口線で小郡、山陽本線でお目当ての戸田(へた)に到着、暗くなった夜道を『地獄谷』の烏賊ヶ浜隋道を列車の間合いを狙って潜り、所期の海浜に天幕を張って、入江の漣(さざなみ)の音と満天の星空、加えて、頻繁に通過するC62やC59の特急、急行、それにD52に牽く貨物列車の通過音を聞きながら眠りにつきました。
  この布原や浜田に関しては、また『本州のD51』や『大八車のパシフィック』などでご紹介致しましょう。

  
  
  
  昭和38年5月2日 19時35分頃 小郡駅 6レ「はやぶさ」
  戸田へ行きがけのの駄賃に撮ったもの

 

  昭和38年5月3日 9時10分頃 3レ「あさかぜ」  同 9時30分頃 5レ「はやぶさ」 
  C6218(広二)                      C625(広二)
                                (「あさかぜ」とほぼ同地点で35mm広角
                                 レンズ使用)

  この時刻となると、乾燥した5月の朝では、煙突からの排気は結露せず、透明な『陽炎(かげろう)』となってしまっています。「あさかぜ」は汽笛吹鳴(すいめい)中、「はやぶさ」は安全弁噴出中です。いずれも、完全燃焼で黒煙は全く見えていません。見事な機関車状態と焚火(ふんか)の腕前と驚かざるを得ません。 ちゃんと三脚を持っていったので、この列車は8mmにも、テレコにも撮ってあり、DVでビデオ化した映像に『総天然色』トーキー映画として編集する事が出来ました。

 

 同 9時35分頃 602レ「さつま」 C6234     同 15時30分頃 停客225レ C6228

  直ぐに上りの急行「さつま」が、電化用に新規に掘削されたトンネルを飛び出して来ます。 急行旅客はスハ級の重い客車を牽引しているので、カットオフを少し伸ばしているのでしょうか、煙突から排気蒸気が白く凝結して白煙が見えています。 この後も、C59、C62貨物用のD52、ディーゼル動車の急行、特急「かもめ」など引きも切らず、けちけち撮っているフィルムも不足してしまいます。 そこで、3時過ぎには戸田の駅に歩いて戻るのですが、その途中、漁村へ下る踏切で10‰を上る下りの各駅停車の225レを撮ったのが、右の写真です。 これも完全燃焼で排気蒸気の凝結した白煙は見えませんが、右前の排気管からの排気蒸気量は相当なものです。
 ところで、ここに『最大の目標』であった「さくら」の写真を載せておりません。 他意あっての事で無く、実は、朝飯の炊飯(すいはん)の用意をしていて、『あと5分はあるだろう』と考え、ちゃんと三脚をセットして置いたのに、その場所に取り付き遅れ、写真も8mmも撮り損なってしまったのです。 絶好の五月晴れの朝、6時45分位だったので、かなり濃密な白煙を吐いて、ディンディンドドン、ディンディンドドン、タンタンタタン、タンタンタターン〜と走り去ってしまった「さくら」を今でも忘れる事が出来ず、夜、就寝中にか[何か、良く分らぬが、兎も角、機関車がいるのです。 写真を撮ろうと思ったら、カメラを遠くに置いてきてしまった・・・・・]と言う脅迫的な夢です。 これがトラウマと言うのでしょうか? 私の場合、昭和20年の7月、勝田で連合軍の第38機動部隊の英戦艦キング・ジョージ5世を旗艦とする艦隊に艦砲射撃をされて近所で20人近くが死傷した戦争被害、また米国海軍の艦上機グラマンF−6F『ヘルキャット』や海兵隊のヴォート(当時はボート・シコルスキーと呼んでいた)F−4U『コルセア』に機銃掃射されて松林の中に逃げ込んだ、恐ろしさなどすっかり忘れてるのに、機関車を見てそれを撮り損なう残念さはその後、40年たっても忘れ得ぬ、心の傷として残ってしまったのでしょうか?
 こうして考えてみると、子供時代に恐ろしい目に会った(よく十分なカウンセリングが必要などと新聞やテレビで報じられますが)と言う事より、事態の状況を判断できる年齢となってからのダメージの方が、その後の人生に大きな何かを残すのではないかと思います。



 ひとつき以上も間が開きましたが、それは巻頭文に書いたり、「鉄道趣味への回帰」のところでも書いたように、本稿を進めるに当たって、昭和38年5月3日の行程の終いとして、瀬野=八本松間で、蒸気機関車の終焉まじかのD52の音を録ろうと、キャンプをしたのです。 そして翌日昭和38年の5月4日に、ここで撮ったキハ82系の「みどり」とEF61を補機に従えた151系の「つばめ」で締めくくろうと思い、DCの写真を漁っていたところ、
皮肉にも、昭和36年9月28、29日、常磐線の大甕=東海、佐和=勝田、勝田=水戸で撮った、キハ81系の「はつかり」の写真が出て来たのです。 そこで、「鉄道趣味への回帰」で書いたC6222とC6211牽引の蒸機「はつかり」の撮影月日が分らなくなってしまったので、これの『追跡』に当たったのですが、判明せず、止むを得ないのでこの解決を後日に送り(どこかの国の政治と同じく)、山陽本線を締めくくることにしました。

 今回の帰りしな、瀬野=八本松間で徹夜して録音した翌日撮った、82系の「みどり」とEF61を後部補機に従えた151系「つばめ」の写真を掲載します。これも保存が悪く、黴によるピンクの斑点が出来てしまっていますが、ご了承の程を!

 
  

  昭和38年5月4日 瀬野=八本松 上り「みどり」     同日 瀬野=八本松 上り「つばめ」
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