山陽本線のC62 
      
        
〜防長路に九州寝台特急を追う〜 @ 

         平成15年8月12日→平成16年8月27日改定

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 瀬野=八本松の蒸気機関車牽引の「かもめ」が消える頃、その外にも大きなイベントがありました。 それは国鉄鷹取工場の戸外に7、8年も放置してあったC53の45号が可動状態に修復されて、鷹取=吹田操車場間を9月20日、21日の両日、臨試2772レ、2771レとして運転された事でした。 幸運なことに、6月頃から何回か鷹取工場を訪問した折に、知己を得た、同工場の工程掛長の千金良(ちぎら)氏から試運転当日の乗車招待券を頂戴し、西尾克三郎さんやキラ星の集まる中で、マロテ582やその他の客車に乗ってC53に牽かれて走った神戸=大阪間は、昔の特急「燕」もかくやあらんと夢見心地で過ごした時であり、この時から、幼児体験が『完全復活』し、今までの関西私鉄電車との二股膏薬に別れを告げるきっかけとなりました。C53に関してはまた別にご紹介する事にさせて頂きますが、今回は写真を2枚貼付いたします。

   


  昭和36年6月4日 国鉄鷹取工場にて           昭和36年9月20日 晴れて試運転に出発するを待つ
  廃車体を晒すC5345                      臨試2972レを牽引するC5345 鷹取にて

  こんな事があって、蒸気機関車への回帰が進む中、私自身に『機関車の写真を撮ったって、機関車や汽車は動いているダイナミズムこそ魅力なのだ』と考えるようになり、どうしてもスチル写真では物足りなく感じるようになりました。 
  丁度その頃、Bell & Howell 社でBari−Zoom,Duo−Zoom という2種類の、ゼンマイ巻の8mmシネカメラを市場に出しました。 それまでの8mmシネカメラというのは、標準、広角、望遠の3種類のレンズは回転式のターレットにねじ込んであって、カチッ、カチッと120度づつターレットを回して画角を選び、その上、自動露出調整(EE)機構が無いので、露出計(これだって甚だ稀少!!)で露光を決め、親指の一節(ひとふし)位しかないレンズの鏡胴の絞りを決め、更に望遠レンズや、標準でも近距離だったら何らかの方法で距離を測って(側距)、ピントを合わせ、やおら小さい米粒から大豆粒位にしか見えないファインダーを覗いて、シャッターを押します。 この時、フルワインドしてあるゼンマイでも精々15秒しか持ちません。そうすると、次にカメラボディを左手で持って、右手の人差し指と親指でゼンマイのハンドルを握って、ギコギコと10回以上ゆするようにねじってゼンマイを巻き込みます。 こうして次の被写体に臨んだのです。 加えて、8mm(後、『レギュラー』とか『ダブル』と呼ばれたフィルムは片面2分で詰め替えて、リールを逆にして更に2分・・・この時、直射日光下では光線引きをしてしまうし・・・まあ、兎も角、散々なものだったのです。 このフィルム装填と反転が厄介で、昭和42年頃に、KODAKがスーパーをFujiがシングルを売り出したとき、今、国土交通省の大臣に納まっているヅカ・ジャンヌが「マガジン ポンと入れるだけ、私にも写せます。♪フジカ・シングル・エーイト」というCMと共に、今までのレギュラー、即ちダブルを3、4年の内に駆逐してしまったのです。
  一寸、話が先に行過ぎましたが、こんな面倒くさい8mmシネカメラが国産でも、数社出ていたのです。そこにベル・ハウエル社が少々大型ではありましたが、3〜3.5倍(だったと記憶)ズームで自動絞りEE機構を持ち、デュオ・ズームの方は逆光補正(バックライト・コントロール)機構があり、そして極めつけは、ゼンマイ巻がクランク・ハンドル式となって5〜6回ブン回すと一杯巻けて、フルワインディングで30秒程連続撮影出来る機械を発売したのです。 もし、8mmを持っていたら(『もしもピアノがあったなら』などという歌がありましたね!)瀬野=八本松の「かもめ」も撮れただろうし、C5345も撮れたに違いありません。
  そこで、またまた清水(きよみず)の舞台からバンジー・ジャンプを行って、高い方のDuo−Zoomを12月のボーナスを宛てにして購入してしまいました。 それ以後、写真と8mmシネの両刀使いとなったのです。 その手始めは、昭和36年12月8日の三田尻(今の防府)=富海間の「みずほ」「あさかぜ」「はやぶさ」の九州特急へののめり込みの始まりです。(この時は、スチル写真を撮ってないので、貼付できません)

  山陽本線の九州特急は朝早く、東から西に向かって走るので、機関車の頭の方から撮ろうとすると、殆ど完全な逆光となってしまいます。夏場なら、広島でも午前6時位から撮って撮れない事はないのですが、いくらかでもサイドに日が当たって、出来たら横の引きが取れて(横に広くなっていて)、足回りが隠れない所が望ましく、更に欲を言えば、瀬戸内の海が入ったら言う事ありません。 そうすると柳井の近辺が、一番光線の加減は良いのですが、海側に防潮堤がある事と、海側からの足場が無いのが致命傷です。 そうこうしている内に、先ほどの富海=三田尻が良いのでは無いかと、思って行って見ましたが、やはり高い防潮堤で『顔写真』しか撮れません。 ところが、ここで列車の来るのを待っていると、遥か遠景に湾(入江)を挟んで足まで完全に見える場所があることが分りました。 
  それが、その後何回か通いキャンプまでして撮った戸田(へた)=富海間の何と恐ろしい『地獄谷・烏賊ヶ浜』トンネルの近辺でした。 ここは戸田駅から遠く、また戸田の漁村から歩いて行ける道も無く、駅から線路をてくてくと歩いて、列車頻度の高い烏賊ヶ浜隋道を歩いて潜るという嫌らしさを味わう必要がありました。
  ここで撮る前に、山陽本線各地でイージーに撮った写真をご紹介しましょう。

  
光での怪談じみた話        平成15年8月12日

  旧のお盆だからと言う訳でもないのですが、山陽本線でC62が牽引する九州行き寝台特急、いわゆる「ブルー・トレイン」を撮ろうと心掛けた(?)初めの頃です。
  出張で当時の新日鉄光製鉄所に行って仕事が終わり、さて明日の朝は瀬戸内海の見える場所でブル・トレでも撮って帰ろうと考え、光駅の南側、即ち海岸側の松林の中を3、400mほど下松寄りに歩いたところに、通常の旅館とは少々造りの異なった、一見会社の寮か合宿所のように思える宿がありました。 時は昭和36年6月の9日かそのあたりで、余りはっきりとした記録(記憶)が残っていませんが、何でも未だ梅雨も明けず、けれども大した降りもせぬ、どんよりよしたひが続いていました。
  その宿に、まだ夕暮れには早い5時か5時半ころ「今晩は!」と入って行くと、そこの女将(といっても、寮のおばさんのような雰囲気)が「夕飯は出来ても、朝飯はできないんですが」とのこと。 どうせ朝の9時頃には、写真を撮り終えて、出て行ってしまうので、返って朝食の時間で制約されるよりは楽だと考え「結構ですよ。お願いします」と言って、部屋に通されました。 夜寝ていても、寝苦しいというような事は無く、夜中にお化け屋敷的な恐怖を感じた訳ではないのですが。
  次の朝、8じ頃だったか?「ちょっと、汽車の写真を撮りに出て来ます。9時頃に戻って来ますから〜!」と玄関で、帳場(今で言う「フロント」)に向かって怒鳴っても、返事がありません。 何回か調理場の方を覗いても、誰もいないようなので、ゆっくりもしておられず、どんよりとした天候のもと、海岸と山陽本線の線路に挟まれた、結構立派な道路を歩いて、かねがね考えておいた撮影場所に急ぎました。 その晩は、東海道の浜松付近で大雨だった由でしたが、「あさかぜ」はほぼ定時だったのですが「はやぶさ」は30分くらい遅れて通過したと記憶します。大雨のせいで、機関車も客車も錆で汚れ、ブルー・トレインが茶色になって過ぎて行きました。 その時の写真を貼付します。 この場所は恋ヶ浜と言い、嘗ては隋道があったそうですが、トンネル前の擁壁は豪雨で崩落し、それに列車が突っ込んで脱線転覆して死者が出る事故があったと知りました。 後で、「そうそう、丁度あんたが立っておられる場所ねエ。 そんとこあたりで、戸板敷いてようけ仏さん、並べておったけ」と言われて、何だか写真を撮ろうと一人突っ立っている時、首筋の後ろあたりがむずむず、ぞくぞくしたわいな! と思いました。 旅館に帰って、荷物を整え「おばさーん、帰りますヨ〜。 お勘定してエ〜」と何回も怒鳴っても、人っ子一人出て来る気配もありません。 「こまったのオ、これじゃア、金払えんけん?」『宿帳書いたから、後で請求が来るだろう、そんとき払えばいいや』と合点して帰って来ましたが、その後請求は来なかったし、前の晩に先払いで支払った覚えも無いし・・・まっこと奇怪な話です。

  


 昭和36年6月10日 光=下松間 「あさかぜ」 C6231  同 「はやぶさ」 C625
 (これは、当時のFUJI COLOUR N-25 で撮ったもので、所謂「白ベース」なので、ラボで
  プリントしてくれません。 パソコンで目一杯努力して「色だし」して見ました)


  この時期に撮った、C62の写真を下に貼付します。

  


  昭和36年8月27日 下関駅 客車の窓から撮ったC6226(関) その後、大阪の
  交通科学館に保存展示されている。

     

  昭和36年8月27日 下関駅に到着し、関門海底     昭和37年1月18日 遅れの1003レ「みずほ」を
 トンネルの「関守」EF10に客車を託す C621(広二)   追い抜いて幡生駅を走り抜けるC6241(広二)が
 9レ「はやぶさ」                          牽く 7レ「あさかぜ」
             

   

  昭和36年6月30日 広島第二機関区(後、広島運転所)のC6214(広二)

  昭和36年には、未だ関門海底トンネルに交直両用電気機関車EF30は配置されておらず、門司機関区のEF10が受け持っており、其の中には漏水する海水による車体腐食対策として、キャブ(車体:電気機関車の車体はボディとは言わず、キャブと言います)をステンレスとした、EF1024が異彩を放っていました。 交直両用機EF30の配置と共に、国府津機関区→新鶴見と移って、EF15の余剰配転によって廃車となりましたが、電化された山手貨物線でD52やD51に替わって山手貨物線で活躍するのを見る事が出来ました。 一寸横道に逸れますが、いわゆる戦前型のの直流電気機関車の貨物用標準機として41輌製造されたEF10とシリコン整流器を初めて使ったEF30形の試作機1号の写真を貼付します。

      

 
 昭和36年8月27日 下関駅 7レ「あさかぜ」を牽く   同 門司駅で折り返し仕業で 3042レ「はやとも」
 EF1024(門)                           を牽引するEF1024(門)

  

  昭和36年4月3日 北陸本線長浜駅 EF301(米)
  米原=田村の交直セクションで試運転中。
  
  交直両用電気機関車を見かけたのは、東洋紡績敦賀工場への出張からの帰りで、急行「立山」に乗っていました。そうすると、長浜駅に到着したとき、ホームを挟んで銀色に輝き赤帯を締めた(この写真ではEktaChromeなのですが、変色してしまって、修復がこの程度までしかできない)大型の電気機関車を見つけました。 田村=米原間は交直セクションで「立山」はED70(交流:イグナイトロン制御格子付き水銀整流器式)からE10に換わるので、これも魅力だったのですが、新型機関車の魅力には勝てません。 急いで下車し、休んでいた機関士に尋ねると、三菱電機製のシリコン整流器式の交直両用電気機関車で、米原=長浜間で交直車上切り替え試験をやっているとの事でした。 余程、涎を垂らすかと心配されたのでしょう。 其の機関士(射手矢『いてや』機関士と言われました)は「米原まで乗ってくかい? 尤も駅のホームでなく北陸側線だけどホームまで、そう遠くないから・・・」という訳で、思いもよらず、最新式の電気機関車に添乗させて頂きました。 その際、整流器の容量の問題で、交流出力は直流の20%しか出せず、交流区間は単機で待避線に引揚げるだけの能力しかない、という事も教えて頂きました。 2号機以降は外観ががらっと変わってしまいましたが、後年3電圧式のEF81が余剰となると、車体をステンレスとしたEF81の300番代と取って代られ、廃車となりましたが、これはこの辺で終わりにして置きましょう。 脱線すると際限なく突っ走るので、皆様、転覆が心配でしょうから!

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