武田二十四将・土屋家との関係を示す文献 

 

☆土屋政一著「土屋氏族の系譜」 中祖・土屋惣蔵昌恒(P123)より抜粋

〜世に伝える片手千人切り等最後の奮戦死闘の限りをつくした。かくてついに勝頼一家の最期を見護ったすえ、
勝頼の幼き第三子彦太郎およびわが幼児平三郎を同心の者たちに託したのち、兄金丸昌義・弟秋山源三らと共に討死した。〜

 

 

 

 

 

☆清見寺、昭和60年発行「清見寺の歩」考より抜粋(P36より)

此の戦に依って、武田氏は滅亡しました。ところが、武田氏の一族たる土屋惣蔵の遺子が甲州の戦禍をのがれて、
如何なる理由に依ってか、清見寺にかくまわれる身となりました。
そして潜居する事六年、天正十五年徳川家康公が、鷹狩りの途上清見寺に立寄った際、家康公の目にとまり、
その非凡に目をつけ、そのまま家康公の侍女阿茶の局の養子として、江戸へ連れて行きました。
そして当時少年だった家光の学友にしました。
この土屋の遺子は、後年将軍家光に重んぜられ、後、今の千葉県土浦七万石の大名に封ぜられました〜

 

☆「辻氏名簿」第二部第一節 三枝野呂系守政流 

○辻茂右衛門尉守忠(のち守快、円喜)

勝頼命により天目山を脱出、土屋惣蔵妻子を駿州に送り届け、甲州に戻り信玄孫一位殿を信州に隠す。のち家康公に御目見。

○辻八郎左衛門守潤(もりよし)(茂右衛門、順故)

守忠に伴われ家康公に御目見、元和二年佐渡奉行田部十郎左衛門と同列佐渡に赴き、佐渡御抱役人筆頭奉行留守居を務める

 

 

 

○辻守弥写 由緒書(「辻氏名簿」P311)にて詳細記載

勝頼公天目山御生害之際 其の邪魔立排除之為め守忠嫡男忠俊矢表に立って討死 守忠も其の節倶々生害之積にて致随従候処 同陣に討死せられたる土屋宗蔵昌惟の妻女並に二歳の男子(妻女は勝頼の妹男子は甥の由に承伝申候)駿州江送届け養育可致由命に寄 妻子に附添駿州清見寺江立退罷在 且其節生涯牢人に而宗蔵妻子存亡見届候積勝頼江堅く致契約候に付 其後右幼少の男子成長之上金丸宗三郎被相名乗御当家江被召出候節守忠儀茂於清見寺

 権現様江於目見仕(守忠儀其節孫亡忠俊嫡子守潤儀も御目見仕候様中伝候共慥成書留等も無御座候)可被召出旨蒙(以下省略)

 

○その他:辻六郎左衛門先祖書写(「辻氏名簿」P346)にて詳細記載

 

☆土屋政一著「土屋氏族の歴史−日本史における土屋氏族−(後篇)」

 東海の平定・家康との接触(P145

家康の武田遺臣招降より抜粋

〜能楽師大蔵太夫の子大久保(元・土屋)長安は金山奉行となって老中を兼ね、
小幡山城主の息子景憲は「甲州流軍学」を樹立、柳沢刑部左衛門の孫、吉保(よしやす)は大老にまでのぼり、
また武田武将の遺児からは、侍大将土屋右衛門尉昌次の弟、土屋惣昌恒の遺児土屋忠直(ただなお)は老中にすすみ上総久留里城主となり、
その二男数直は常陸土浦城主となり、その他一族要職に就くなど、多くのすぐれた人材が生まれた。



☆土屋政一著「土屋氏族の歴史−日本史における土屋氏族−(後篇)」
          口絵写真(土屋忠直より辻八郎左衛門守潤に宛てた書状)より。

書状をデジカメ撮影

 

書状文の大意:辻守潤が古民部宅を見舞わった時の接待の事、お土産の事等の礼状。

          京都の綜合資料館古文書課にて解読。


参照:武田二十四将 天目山の戦い