<<< TOKAGE heavy industry.
また宗易、今一首見出したりとて(中略)――花をのみ待らん人に山ざとの雪間の草の春を見せばや――これまた相加へて得心すべし。(中略)力を加へずに真なる所のある道理にとられしなり。
南方録/南坊宗啓著より抜粋 ■ 序ヘムロック・D・アズマが異変に気付いたのは夕食の時間だった。今しもフォークで突き刺した肉片を口に運び込もうとしていたヘムロックだったが、どうした訳かその手がぴたりと止まってしまっていた。誰かに手を止められた訳でも、また超自然的な現象が起こった訳でももちろんない。はたから見れば、ヘムロック自身が好物を前にして、ただ手を止めてしまっただけである。 食欲はあった。 馴染みの女のもとへ出向く前の、腹ごしらえとばかりに頼んだ食事だ。飽きた訳でもないのに、しかし何故か手が進まない。食事の手を止めたヘムロック自身が肉を眺めながら、不思議そうに首を傾げている事態そのものが異変の良い証左かも知れない。 ――鮮度が良いな。 なぜかヘムロックはそんなことを思った。ウェイターが注文を取る際に――聞いてもいないにも関わらず――ああだこうだと、供する肉の賛辞めいたことを口にしていたことが思い出される。 食事なのだから、鮮度の良し悪しは重要なことだ。産地すらも情報開示を求められる昨今である。質の悪い食材を客に振舞えば、店の評判を貶めるだけでなく、営業停止の憂き目にだってあいかねない。ましてや目の前の肉は一般的に良質なものであり、咀嚼すれば柔らかい質感と肉汁の旨味が口中一杯に広がるに違いないとヘムロックの経験則が力強く言っている。言ってはいるが、しかし芽生えた疑問は、既に黙過できないほどに肥大していた。もはや肉以外の――例えば鉄くずのような――何物かとしか思えない。食へのベクトルが正反対へと逆転してしまったかのようだ。 結局、ヘムロックは肉を頬張ることなく、フォークをテーブルに置いた。しかも乱雑に。鋭角的な音をたてて割れた皿の破片が、手のひらの肉に喰い込む。衆目の集まる中を己の目が泳ぐ。 なぜか胸中は苛立ちにも似た焦燥感でいっぱいになっている。単なる焼けた蛋白質でしかない塊が、喉に刺さった魚の骨のように酷く気に触る。 「大丈夫ですか?」 気付けばヘムロックは地に平伏して、だらしなく嘔吐していた。一拍遅れて饐えた臭いが鼻を刺す。 ウェイトレスだろうか、駆け寄ってきた女には見覚えがあった。否、それは視覚的な既知感覚よりも、むしろ差し出された手の感触をこそ―― 再び鳩尾の辺りが痙攣し、喉元を酸い胃液が焼いた。 「ひっ」 ヘムロックは怯えた声を上げて、女の手を振り払った。己に近づく全てが、忌むべきものとしか見えない。何だろうか、あの色艶の良い肌は、何だろうか、あのびっしりと頭部を覆う毛髪は、何だろうか、あの澄んだ瞳は、何だろうか、あの口や鼻から吐き出される気流は。 何だろうか、あの生と言う得体の知れない何かは。 もはや一切合財がヘムロックの理解を超えていた。死体に湧いた蛆虫のようだ。ようやく店の奥からわさわさと現れた従業員も、もう目に映らない。注目の的となったヘムロックは、なおも声にならぬ悲鳴を発しながら、皿の破片が突き刺さった手を振り回した。 「ひっひゃあああああ――」 涙の混じった視界に己の手から溢れる血と肉とを見たヘムロックは、嗚咽だか悲鳴だか判然としない声を発して、そうしてきりきりと舞うように昏倒した。 * この一件が公の場にて取り沙汰されるようなことは、実はなかった。翌日のニュースにて取り上げられるほど事件性があったわけでもないし、何よりも搬送された病院にて当のヘムロック自身が意識を取り戻したことが影響している。目撃者は話のネタに、おかしなヤツを見たと吹聴するだけであったし、ヘムロックの知己は病院から当人が自身の足で退院する姿を見て安堵の息を漏らしただけだった。誰しもが日常の中のちょっとした非日常として、記憶の片隅に埋めてしまっていた。 しかし事件にも満たない些事として片付けられた最大の要因は、この一連の騒ぎに対して情報操作が行われたためだと言うことを知る者は少ない。言い換えればその事実は、真実を隠蔽しなくてはならないほどの事態を示唆している。 ■ 一 帝國第二軍団長ストロキス将軍の邸宅に、その風変わりな建物は併設されている。こけら葺切妻造りの屋根に土間庇、障子の立てられた貴人口、壁は土を塗り固めたものだろうか、四畳半にも満たぬその佇まいは、枯れ、なお淡く、在るがまま自然に溶け込んでいる。 名を紫乃庵という。 現第四皇妃サクヤが、実子である元第二皇女カグヤの婚姻の際に贈ったとされるその庵は、サクヤの祖国において発達した茶室という文化である。庵の一角に面した庭――露地には木枯らしに葉を散らす木々が、地面にはくすんだ色合いの落葉が、空には厚い雲海がのっぺりと広がっている。その様子は寒々しくて嫌味なくらいに淋しいが、しかし、どういった訳かよくよく見れば何とも味わい深い趣をしている――ように感じられる。ワビだサビだと言うらしい。 そんなことを考えながら露地を進んでいた侘鉤(たかぎ)は、門前にてはたと足を止めた。五間ほど離れた先に、和装に前掛けをしたM.A.I.D.が、竹箒を片手に佇んでいる。寒風吹く褪せた色合いの中、そのM.A.I.D.はまるでそこにある庵のように違和感なく周囲と同化している。 それはカグヤに仕える、さららという名の侍従頭であった。 「ご苦労様でした。侘鉤。手を煩わせましたね」 さららが瞼を閉じたまま目配せをした。 速やかに進み出ると、侘鉤はすっと膝をついた。 「折りふしの移りかはるこそ、ものごとにあはれなれ。変化は最も身近な理の一つです。そこにある真実であるからこそ、四季の移り変わりに心情を託し、自然の懐に抱かれて美を感じることができる。これをご覧なさい」 さららが庵の隅に咲く枯れ花に手を伸ばした。季節外れにも狂い咲いたようで、元は白かっただろう花弁も今や茶褐色に萎れている。 「三日ほど前に花を付けました。クオン様が珍しいと非常に喜ばれていらっしゃいましたが、やはりこう寒い日が続くと――」 花の命はとかく短い。陽も弱い時候であれば、尚のことである。 「秘する花を知ること、秘すれば花なり、秘せずは花なるべからずとなり。あれほどに綺麗だったのですから、狂い咲きの花にも隠された意味がありましょう。井戸を隠しているからこそ砂漠は美しいのです」 砂漠云々というくだりは何からの引用だろうか、さららの言葉をゆっくりと反芻してはみたものの、結局ぴたりと思い至るものはなかった。雲を掴むような考えをいくら手繰ったところで、深謀遠慮になど届く道理がない。下手な考え休むに似たりと故事にもある。 侘鉤は潔く投了することにした。 「舶来の読み物ですよ。時に侘鉤。変化とは何だと考えますか」 「変わる――こと?」 自問のような答え方になったのは、稚拙な返答しかできないと思った以上に、変わるという作動それ事態が判らなかったからだった。変わることでは、ただ言い換えただけだ。物事の形や質が以前とは違ってしまうこと、では状態の最初と最後だけを切り取って比べているだけでしかない。考えれば考えるほどに真理が遠退いて行くように感じられた。 「例えば、この花。変化があればこそ、このように今咲く花もある。狂い咲きとは言えど、ただそれはそうあっただけのこと。しかし裏を返せば、変化とは実にありふれています。何も特別なことではありません。だからこそ美しいし、かつその結果は等価と考えるべきです」 かん――鹿威しが鳴った。 「面を上げなさい」 許されて後、緩々と侘鉤は顔を上げた。先と変わらぬ場所で両目をつぶったまま、さららが静かに庭を眺めている。 侘鉤は諜報や暗殺などの活動を主眼に置いて設計された第二世代M.A.I.D.である。そのため蜜壷――擬似的な膣を内蔵しており、いわんや交配は不可能であっても人間との性交が可能な構造の躯体をしている。色を使ってどれだけの人間を惑わしてきたことか。 「報告をお願いします」 ヘムロックを名乗る人物の暗殺をお願いします――さららがそう下知したのが三日前のことだ。忍である侘鉤が仕える主とは、皇帝の係累ではなく、神韻縹渺の剣士さららである。 「案件“ヘの二十九”に関して、ご報告申し上げます」 侘鉤は主観を極力排して、ここ数日間のあらましを語り出した。 ■ 二 三日前のことである。 * 「ヘムロックを名乗る人物の暗殺をお願いします。これはアグリゲータからの要請です」 アグリゲータとは帝國法務省の下部に位置づけられる治安維持機構である。 M.A.I.D.を主軸にした近隣諸国への侵略戦争によって一大国家圏を築き上げた帝國は、その経緯が然らしめるように各地における内紛の萌芽を抱えた。絶大な軍事力の象徴であるM.A.I.D.の存在が抑止力として働いてはいるものの、併呑した地の民全てが納得する由など当然なく、結果、デモ行動から反乱まで大小様々な抗議行動が頻発した。事態を鑑みた帝國法務省が自治組織としてアグリゲータの設立を急がせた背景には、そういった経緯がある。主にM.A.I.D.導入によって削減されたマンパワー――人間兵士から編成されている組織ではあるが、軍事技術の漏洩により不正に流通される他国製M.A.I.D.絡みの犯罪件数の増加に、組織としての存在意義を問われているのが現状だ。 足元に咲く白い花を見つめながら、さららが言葉を続けた。 「帝國領北西部ラーウォイシにて多数の目撃証言が得られています。帝國領内でのこと。事態をいたずらに大きくはしたくありません。隠密裏に片付けてくれますね」 「かしこまりました」 「でもさー」 復唱を遮るように発せられた上方からの声に、侘鉤は空を仰いだ。果たして庵の屋根の上には、尊大に腕を組みながら眼下を睥睨するM.A.I.D.が仁王立ちしている。さららの妹うるるだ。さららとは対称的に華美な外見をしている。鋭角的な輪郭に睫線、燃えるような赤い瞳、短いスカートからは挑発的な太ももが覗いている。 ひらりと裾を翻しながら、うるるが屋根の上から飛び降りた。 「ウザいヤツを始末すればイイんでしょ? そんなの、るる一人でヨユーだって」 「貴方はクオン様に仕える身。帝位決定戦も控えているのだから自重なさい」 「らら姉は心配性だな。問題ない。るるに任せておくがいい」 「るる。貴方がそれじゃあクオン様に示しがつきませんよ」 「にゃー。大丈夫だって。ブー子からもらら姉に何とか言ってよ。ねー」 姉妹のやり取りを静観していた侘鉤だったが、うるるが発した“ブー子”の一言に目付きを一変させた。 「ねーブー子ー」 「恐れながら。うるる様。私の名は侘鉤にございます。間違っても“ブー子”という名ではございません」 「ブー子じゃん。タカギブーコ」 堪忍袋の緒とは、ことのほか脆いものである。 「ちっ。馬鹿女が」 「あっヒドーイ。ダッチワイフー」 言うが早いか、両者が身構えた。侘鉤は二刀の小太刀“火刀”と“血夜”を、そしてうるるは薙刀型光剣“流星”を、それぞれ股の間――なんと下品な所にペイロード・ポケットを設けたものだ――からずるりと引き抜いた。 閑寂を貴ぶ紫乃庵に殺気が満ちた。途端に周囲の空気の粘性が増したように感じられるのは、純粋に相手を死に至らしめることを覚悟しているためだろうか。手加減は一切なしということだ。それはじりじりと詰められる間合いにも、如実に現れている。虚実を織り交ぜ、互いの制空圏を見据えて、次の一手を慎重に牽制し合っている。一瞬のミスが、すなわち死に繋がるからだ。 そして。 「二人とも控えなさい。カグヤ様の御前を何と心得ているのです」 両者が死地への一歩を踏み出す直前に、しかし場はさららの静かであり、また力強い声によって制圧された。生半な意思では抗うことすらも許されぬほど強烈なさららの命令が、重圧のように両者の肩に圧し掛かり、それ以上の行動を、有無を言わせることなく禁じていた。 泥のような沈黙の中、各々の視線が交錯した。 「失礼致しました」 「――ゴメンなさい」 侘鉤は平身低頭に、うるるは口を尖らせながら深謝した。対して、さららの表情は変わらず、盲いたようにただ両目を閉じている。 「るる。そろそろクオン様の元に戻りなさい」 言い訳にもならぬ何事かを、ごにょごにょとぼやきながら足取り鈍くうるるは去っていった。一吹きの木枯らしだけが、その後をついていく。もののあわれ?――脳裏を過ぎった単語を、侘鉤は頭を振って追いやった。間違っていると思ったからだ。 話を戻します――と、さららが事もなげに言った。 「先の帝位決定戦の発表を期に、諸外国における不穏な動きが散見されるようになりました。帝國領内におけるM.A.I.D.同士の戦闘行為が、決定戦施行により事実上是認されたことに乗じての行動でしょう。滅紫戦団なる組織の帝國領内潜入も噂されています。獅子身中の虫も否定できません。寸毫の危険因子とて見過ごしてはならないとの判断から、次期帝位が決定するまでの間、私達のような参戦権を持たないM.A.I.D.が、治安維持に努めることになりました。よろしいですね?」 侘鉤はゆっくりと微笑むように頷いた。 ■ 三 ラーウォイシは眠らない。 夕間暮れを過ぎた頃合から街路灯やネオンが胡乱な明かりを発し、だらだらと広がる夜を薄らぼんやりと照らし続ける。街路には香水と白粉の臭いのキツい娼婦が、路地裏には弛緩した目の無頼漢が立ち並び、爛れた夜の日常を這うように過ごしている。そんな典型的な売春街だ。日中とは異なった層にでもあるのだろうか、落日を機に全てが一変する様は見物ではある。 そんな猥雑な街の外れに女神モーテリカを奉った祭殿はある。曖昧な明るさを放つラーウォイシの中にあって、その祭殿は例外的に暗闇に閉ざされているのが常だ。背の高い木々に周りを囲まれているために、陽が少しでも傾けばもう夜のように暗転してしまう。加えて人の往来も少ない。必然的に真っ当ではない日陰者の類が集まるようになる。ヘムロック暗殺を任じられ、この地に赴いた侘鉤もその一人だ。 昼間の内に調べた情報によれば、ヘムロックなる人物はラーウォイシ界隈で三つの売春宿を経営しているらしい。最近になって掃き溜めに鶴とでも言わんばかりの女を囲ったようで、熱心に入れ込んでいたとも聞く。またその裏では、あこぎな女衒と関わり合い深く、貧困に嘆く民から半ば詐欺紛いの取立てを行っているそうだ。 何ともありふれたクズだ。 後顧の憂いを覚えることなく抹殺できることだけが僥倖か、早々に片付けて帰還したいものだと思いながらも、侘鉤は本件に関して幾許か疑念を抱いた。木っ端のごとき悪党でしかないヘムロックの罪状は、暗殺命令が下るにはあまりにも小さい。それこそ十把一絡げに一斉検挙として処理するようなやからである。まだ何某かの情報を掴みきれていないのだろうか。 「下手な考え休んでニタリ!」 上方からの声に既知感を覚えてみれば、案の定、女神モーテリカ像の上に踊る陰が在った。 「判んないことは、ぐにゃぐにゃ考えても判んないって。失敗して笑って誤魔化すくらいなら行動行動。じゃない?」 「うるる様。それを言うなら下手な考え休むに似たりです」 「おんなじだよ」 侘鉤の言葉にいくらも耳を貸さぬうるるが、満ちた月を背負って飛び降りた。煙と何とかは高い所が好きというが、全く以ってその通りだと侘鉤は思う。 一つ溜息を吐いた侘鉤は、音もなく着地したうるるを姿勢良く迎えた。 「斯様な時刻にいかが致しました?」 「事件でしょ? やっつけなきゃ」 「さらら様に報告致します」 「うぁ、即答。ちょ、待って。待ってって」 うるるがスカートの中をごそごそとまさぐった。無論ペイロード・ポケットを起動しているのだが、端から見れば酷く不埒な所作そのものである。 ちゃらららん♪――効果音だろうか、意味不明な声と共に、うるるが小さな壷を股の間から取り出した。 「らら姉特性梅干、十五年もの〜」 「そ、それは!」 侘鉤は過剰な反応を示した。劇的と言ってもいい。強烈な直下型地震が局地的に――侘鉤の足元限定で――発生したかのようだった。身体がびくんと痙攣したかと思うと同時に、足元の石畳にばりばりと音を発てて放射状の亀裂が生じた。またたびに飛びつかんとする猫のようである。 「な、なんですか。そんな――わ、私はそんな、ば、買収なんて――」 「要らないって言うんなら、これ持って帰って返しとくけど?」 隠しようもない侘鉤の動揺は、明々白々な心の葛藤を示していた。主人であるさららが端正こめて造り上げたビンテージ梅干の壷は、うるるの加虐精神によって右に左に行きつ戻りつしている。小壷の動きに合わせてふらふらと泳ぐ侘鉤の視線は、既に梅干の酸っぱさを感受しているのか忘我のそれだ。 「昔っから大好きだもんね。梅干」 侘鉤とうるるの付き合いは殊の外長い。修行を共にしたこともあるためか、嗜好などに関してはお互いが知るところが多い。 声にもならぬ悲鳴を侘鉤は漏らした。 「しかもコレ、慶雲弐号の瓶から出したヤツなんだ〜」 「慶雲弐号! 皇玉の名を冠する誉れ高き一粒ではありませんか!」 くぅと侘鉤の声だか腹だかが鳴った。 「――参りました。だからそれ下さい」 もはや体面だとか礼儀だとかを忘れた侘鉤は、どこか悔しそうに膝を地につきながら哀願するように手を伸ばした。その様を眺めているうるるの表情には、勝者の笑みが深々と刻まれている。 「成功報酬に決まってんじゃん」 「えっ!?」 勝ち誇った表情のうるるがスカートの中に小壷を仕舞った。対する侘鉤の顔には、特大のジレンマが浮かんでいる。 しかし欲求とは基本的に素直だ。 「――かしこまりました。うるる様。ご同行お願い申し上げます」 「最初っからそう言えばいいんだって」 渋い顔をした侘鉤と、喜色満面のうるるは、そろってモーテリカ祭殿を後にした。 ■ 四 「で、どこへ行くのだ?」 侘鉤の前をすたすたと歩くうるるが、語尾の上がった口調で言った。くりくりと愛嬌のある目で返答を待つうるるは、至って天真爛漫だ。 それに対し侘鉤はと言えば、迷いのないうるるの歩調に、何某か本件に関する情報を持っているのかと思った矢先のその言だったために、聞き間違えたかと己の耳を疑った。しかし聴覚神経系にはまったく異常ない。認識系アルゴリズムの整合性も保たれている。つまりは―― ――何も知らぬくせに、迷いのないその歩調はなんだ。 呆れた。侘鉤は心底呆れた。たまさか進行方向に間違いはなかったために、疑問を抱くことなくうるるの後を追従したが、ふたを開けてみれば風任せではないか。うるるのその無計画性に呆れた以上に、侘鉤は自分の認識が甘かったことこそに心底呆れ、かつ自信をなくした。最初から己がぐいのぐいのとうるるを先導すれば良かったと悔恨ばかりが肥大する。 力なく侘鉤は先を促した。 「ここより三ブロック先にある娼館“くるわ”です。真っ直ぐ行って下さい」 「近っ!」 うるるの場当たり的で磊落な態度に、少しずつ侘鉤の言葉はぞんざいになり始めていた。修行時代の苦楽を共にした仲であり、気心の知れる部分は多い。忠だ義だといった信念――侘鉤の真ん中にあるものは、さららに対する巨大な忠義だ――がなければ、過日に交わした言葉がひょっこりと顔をのぞかせるというものではないか。 「働き口を探しているという口実でくるわに潜入します。対象は審査と称して性交を要求することが、事前調査の段階で判明しています」 対象とは暗殺対象であるヘムロックのことを差す。 それを聞いたうるるが、嗚呼、と納得を示した。 「それでそんなカッコなんだ。へー」 侘鉤は今、素肌に昏黒のジャケットとスキニーレッグのパンツだけを着用していた。下着もシャツもブラウスも付けず、ジャケットはただ羽織るだけでボタンをとめようともせず、パンツに至ってはベルトを外しチャックを半ばまで下ろしてさえいる。街中でそのような痴態をさらせば公序良俗に反するとして、治安維持紀行アグリゲータに連行されることは間違いない。 うるるがベルトの端に触れた。 「ペイポケは?」 「こちらに」 そういうと侘鉤は豊満な胸の谷間から、二刀の小太刀“火刀”と“血夜”を緩々と取り出した。おおと声にならぬ感嘆をうるるが上げる。 「小型のPPデバイスです」 しばらくの間、互いの胸を見比べて押し黙っていたうるるだったが、目的地近くに差し掛かった頃、不意に顔を上げて難しい顔をした。うるるにしては珍しい表情である。 「ブー子が潜入してる間――」 「ブー子じゃありません」 「潜入してる間、るるは何をしていればイイのだ?」 「外で待機でもしてて下さい」 うるるが驚いた――ような――表情をした。口を大に開き、首を少し傾げ、沈黙して続ける言葉を探しているようだ。戦いたがっているのだ。敵が在れば討ち、悪が在れば誅する――純粋なうるるらしい考え方を、侘鉤は嫌というほどに知っている。蔓延る悪行を嗅ぎ付けたからこそ、姉さららの言いつけを破ってはせ参じたのだろう。あるいはただ暴れたいだけかも知れないが、しかしその動機がいずれにせよ、このたびの任務は暗殺なのだからM.A.I.D.としての特性を鑑みるに、うるるの出番はないと言わざるを得ない。 侘鉤は同行は許したが、任務への参加は許していない。 発火するように沈黙は破られた。 「つーまーんーなーいー。そんなのつまんない」 「なら一緒に殿方のお相手をしますか?」 「やだ、そんなの」 不毛な言い合いは平行線をたどったまま、結局、ヘムロックの根城くるわに到着してしまった。 粋なつもりだろうか、門扉には豪奢な装飾がなされているが、一見しただけの侘鉤の目にはただケバケバしく映るだけだった。その隣でちょこちょこと跳ね回りながら憤慨していたうるるも、やはり趣味の悪さを感じ取ったのか、眉間にしわを寄せて奇怪なものを見るような目つきをしている。 「悪趣味なの」 「門前に牛太郎もなし――か」 「ねぇブー子。何か臭わない?」 「御意のとおり。それとブー子違います」 砂鉄のような臭いが、すんと鼻を突いた。血だ。イレギュラな事態に直面したことは明白だ。 どさくさに紛れて当初の任務を遂行するか、あるいは日を改め出直すか対応策を講じる侘鉤をよそに、うるるがぽつりと語りだした。 「こないだ映画見たんだ」 「映画ですか」 「題名忘れちゃったし、るるには何が面白いのかも判んなかったけど。イイこと言ってたんだよね」 侘鉤は脱線し始めた話を聞き流し、うるるを見ようとしていなかった。 そして、それが失敗のもとだった。 「ガツンとやってピューっと逃げる――だったっけな」 冷水を浴びたように嫌な予感を覚えた侘鉤は、首が痛むほど全力で振り返った。果たして悪戯っ子のように無邪気な笑みを浮かべるうるるが、ごそごそとスカートの中をまさぐっている。 止めようとした時には既に遅かった。 「おりゃ!」 うるるが全力で駆け出した。“流星”を片手に文字通り流れ星のように、娼館くるわの門扉に押し寄せる。 ガツンと声に出して振るわれた暴力が、くるわの門前一帯を粉砕した。瓦礫が降り注ぐ。粉塵が舞い上がる。 「さ、まだガツンの途中。ボケっとしてないで、さっさと行こ」 「あ、ちょ、待――」 くるわの中へと足を踏み入れたうるるの後を、上がる血圧を忘れて侘鉤は追従した。 ■ 五 エントランスルームの下品な装飾に目を奪われるよりも先に、フロアの隅にぶちまけられた血に視線がいった。人間の致死量を優に超えるその赤い広がりは、いやが上にも不測の事態の発生を予感させた。 「誰も出てこないぞ」 ヘムロックの不在も危ぶまれた。うるるの言うと通り、門扉を木っ端微塵に粉砕したにも関わらず、ヘムロック一党は姿を魅せようともしない。情報が漏洩でもしたか、暗殺を嗅ぎ付けれれたかもしれないし、またあるいは予期せぬ事態に巻き込まれて、もはや生存すらしていないかもしれない。可能性と憶測ばかりが脳裏を過ぎる。 「血、乾いてる」 思案する侘鉤を傍目に、うるるが血溜まりの脇に膝をついた。茶褐色に変色した血の乾きは、出血から相応の時間が経過していることを示唆している。館の奥へと視線を移すが、その先に広がるのは不明瞭な薄闇ばかりで、ためつすがめつ眺めたところで返答があるわけでもない。 うるるの一撃によって舞い上がった粉塵が晴れた。 背後を振り返ってみれば、ぱっくりと開いた大穴――門のなれの果て――から、濃紺の闇と爛れた灯りに包まれる夜のラーウォイシが一望できた。 「うるる様。奥へと進みましょう。ここにいても埒が明きません」 そうじゃな、と居丈高に頷くうるるの前に立って、侘鉤は館の奥を目指した。 電源を落としているのか、いやらしく黄ばんだ電灯は瞬きもせず、深閑とした茫漠の闇ばかりが目に付いた。点在する扉の向こうからは、生物の気配は一切感じられない。建物内はもぬけの殻だろうかと思い始めたちょうどその時、廊下の突き当たりで階段が現れた。見るからに安普請のその階段は、急な角度で二階と地下に分岐している。 「るるが上に行くぞ」 話し合う間もなく、うるるが上階へと向かって駆け出した。足音もない所作だが、その大胆な足取りは既に姿を隠すことを止めている。 仕方なく踏み出した階下への一歩は、ぎいと不満のように軋んだ。 面倒なことになった――そう思い、後悔が溜息となって口から漏れた。暗殺任務であるにも関わらず、正面玄関を盛大に破壊したのだ。暗殺も何もあったもおのではない。うるるの介入が作戦の障害になることは容易に想像できたことだった。龍場の一悟を地でいく性分をしているのだから、姉さららに少したしなめられた程度で引き下がる筈がない。 ――どうすれば良かったというのだ。 対策を考えながらも、己が過失に対する言い訳染みた未練を看過することができなかった。任務に集中すべしと心のどこかで理性が働くものの、階段を下るたびに後ろ向きな妄念が、己の内でぶくぶくと体積を増していくように感じられる。だからこそ、この古びた踏み板もだらしなく軋むというものだ。 底は虚(うろ)のような闇で混濁していた。 地下のスペースには、一室の部屋があるだけだった。四方五間といったところか、あまり広くはない。壁や床のラインが直線的であることから、立方体の部屋であることがどうにか知れる。 音もなければ人の気配もないが、しかし臭いはあった。 それも厭な臭いだ。 栗の花に酷似しているその臭いは、侘鉤の職務に深く関わっている。劣情の象徴とでも言えようか、闇の黒に比べて気色悪いほどにそれは白くてらてらとしている。 それは侘鉤らケイ素生命が持ち得ぬ情報の記録媒体――遺伝子の臭いだった。 「――ッタクソ悪い」 昏黒の闇の中、侘鉤が目の当たりにしたのは、人間に陵辱されたM.A.I.D.――スレイヴ・ドールだった。両手両足は鈍色の鎖によって壁に繋がれている。力なく項垂れているので顔は窺えないが、垂れた頭髪――驚くほどに長い――の間から、いかがわしい質感のボールギャグやアイマスクを装着していることが判る。 富裕層を対象に民生用M.A.I.D.というものが流通した時期があった。家事一般のみを処理できるよう意図的に設計された民生用は、侘鉤ら戦闘用に比べ低出力かつ限定的機能のみを有するに留めて上梓された。耐久年数や処理能力、価格帯など多くのバリエーションを用意することにより、瞬く間にコンシューマの間に普及した。 時代の寵児――ではあった。 しかし民生用M.A.I.D.という市場の勃興と拡大を影で支えたのは、他ならぬスレイヴ・ドールという性玩具の不正流通だった。今ほどにM.A.I.D.の生産開発について規格や規制が整備されていなかった時期のことである。人間に対して従順でなおかつ愛らしい容姿をしている人形(ひとがた)が、醜悪な性欲のはけ口となるのは明白ではないか。げにおぞましき人の性質(たち)とは、当時の新聞紙上の一面を飾った言葉だ。一般の民生用と異なり、そのほとんどを高コストのカスタムメイドで受注したにも関わらず、貴族の醜聞としてメディアにすっぱ抜かれてスレイヴ・ドールが明るみになる頃には、既に一万体以上が帝國内外に流出していたという。 対応は迅速を極めた。 法規制によってスレイヴ・ドールの生産が全面的に禁止され、所有するだけで罪となった。また民生用M.A.I.D.に関しても、法務省が管理する許可制度法案が布かれた。有識者の『人の嗜虐性をいたずらに助長する恐れがある』との見解が世論を動かしたと一般的には思われているが、実際には帝國外へのM.A.I.D.流出と共に、軍事技術の漏洩を危惧した各省庁による後押しが強く影響した結果だ。 それを機にスレイヴ・ドールを含む民生用M.A.I.D.の数は激減した。 先の法務省の事業報告書によれば、帝國領内に現存する民生用M.A.I.D.の個体数は百体を下回るとのことだ。 しかし現実は酷薄だ。 侘鉤が直面した現実は、帝國の施策が人間側の都合にのみ終始しているということを明確に示している。人間が人間の損益のみを鑑みて策定した法案によって、一体どのM.A.I.D.が救済されるというのだ。現にスレイヴ・ドールは目に前にあるとおり未だ不正に生産され続けている。甚振られるだけ甚振られ、壊れて――死んでしまうM.A.I.D.など星の数ほどいるに違いない。 「済まない」 大勢側に属する侘鉤は、気付けば名も知らぬM.A.I.D.に対して謝っていた。侘鉤が何かをしたわけではない。何もできなかったからこその無力感か。慈悲もなく尊厳もなく弄ばれ、システムダウン――気絶していることは明白だったが謝らずにはいられなかった。 侘鉤は無言でヒートナイフ火刀を抜き払った。その刀身は既に炯々と赤熱している。 鎖は容易に断ち切れた。 いましめを解かれ前のめりに倒れ始めたスレイヴ・ドールを、侘鉤は汚濁の中に突っ伏す前に片手で支えた。ずっしりとした重量感が己と何ら変わらぬM.A.I.D.であることを強く主張している。 いたたまれなくなり顔の拘束具に手を伸ばした、ちょうどその時―― 「きゃあああああ!」 うるるの甲高い声が館中に響き渡った。
■ M.A.I.D. 【侘鉤(たかぎ)】
「ちょっとだけよ〜なんつって。阿呆らし」 侍従頭さららに仕えるM.A.I.D.であり、主に潜入や諜報、暗殺を手掛ける隠密型。その躯体は擬似的な膣を実装しており、人間との性交(交配は不可能)を実現している。当然スタイルは抜群。 うるるとは己の技を高めるため共に切磋琢磨した修行仲間だが、主従関係であるさららの前ではうるるに対しても敬意を払うように努めている。 仕様 : 第二世代隠密型 評価 : D 性能 : 攻撃E/防御E/機動A/持久C/頭脳C/技量A(性的な意味でSSS) 体型 : 身長162cm B94/W60/H86 名器 装備 : 二刀小太刀「火刀(かとう)/血夜(ちや)」 好きなもの : さらら 梅干 嫌いなもの : 「ブー子」と呼ばれること 主人 : さらら⇒「さらら様」 【火刀】 発熱することにより切れ味を増すヒートナイフ。 【血夜】 有機及び無機生命系に重篤な影響を与えるヴェノムナイフ。 ■ M.A.I.D. 【ノルム】
「進歩を倍加させる乗数とならんや――」 下腹部に超々大容量ペイロード・ポケット・デバイス『クラインの壷』を内蔵しているM.A.I.D.である。現皇帝直々の勅命により、『常軌を逸した莫大さ』をクラインの壷の中に収容したまま、帝國第九刑務所最下層に設けられたジュデッカに、自ら進んで幽閉されている。 仕様 : 第二世代 評価 : F 性能 : 攻撃F/防御F/機動F/持久S/頭脳F/技量F 体型 : 身長177cm B87/W101/H89 装備 : 超々大容量ペイロード・ポケット【クラインの壷】 好きなもの : 終焉 嫌いなもの : 誕生 主人 : 皇帝 【クラインの壷】 超々大容量ペイロード・ポケット。ノルムが閂を開かぬ限り、内部は広大かつ閉じた循環系『ザルタクラ』を形成する。ザルタクラ内部には魔女『常軌を逸した莫大さ』が封印されている。 【常軌を逸した莫大さ】 M.A.I.D.の神経系に関わる根幹技術を確立した科学者エノルミテ・モワの忌み名。
■ 『花をのみ待らん人に山ざとの雪間の草の春を見せばや』 壬二集/藤原家隆からの抜粋。 ■ 『折りふしの移りかはるこそ、ものごとにあはれなれ』 徒然草/吉田兼好著から抜粋。 ■ 『秘する花を知ること、秘すれば花なり、秘せずは花なるべからずとなり』 風姿花伝/世阿弥元清著からの抜粋。 ■ 『井戸を隠しているからこそ砂漠は美しいのです』 星の王子様/サン・テグジュペリ著からの意訳引用。 ■ アグリゲータ 帝國法務省下治安維持機構アグリゲータ(Aggregater)を指す。 ■ ラーウォイシ 吉原のアナグラム。YOSHIWARA⇒RAAWOYSHI ■ 女神モーテリカ 帝釈天の母とされる鬼子母神の別名“訶梨帝母(かりていも)”を、逆から読んだもの。出産や安産を司る神様。『恐れ入谷の鬼子母神』からの安直な発想。 ■ らら姉特性梅干 さららが毎年梅雨の頃に漬ける梅干。梅の産地から瓶を大宝、慶雲、和銅に分類。基本的には係累縁者の間で食しているが、間々、市場に流通することがあり、その際は一粒数千から数万で取引されているとか。 ■ くるわ ヘムロック・D・アズマが経営する娼館の内の一つ。由来は廓から。他に“たゆう(太夫)”と“ぎろう(妓楼)”がある。 ■ 小型のPPデバイス 携行型のペイロード・ポケット展開装置。どんな形状か判んないんで、ここでは乳に埋もれたまま。 ■ 牛太郎 妓楼に住み込み、客を引き込む仕事をする人。ぽん引き。 ■ 『こないだ映画見たんだ』 映画チーム・バチスタの栄光/海堂尊原作/中村義洋監督のこと。『ガツンとやって〜』とは、原作小説の中でロジカルモンスターこと白鳥圭輔が用いるアクティブ・フェーズの極意その二からの引用。映画で言っていたか否か、実は覚えていない。 ■ 面倒なことになった スティンガー的でファンタズマ的な名言。 ■ 龍場の一悟 既成の規範に価値を求める行為は自己疎外の原因でしかなく、本心を満足し得るものではないという悟り。王陽明。 ■ スレイヴ・ドール 性交の代償行為のために擬膣を実装する民生用M.A.I.D.を指す。全個体が帝國の定める法律に抵触する。最初期のモデルは、人間の性行為に対する欲求を満たすためだけに造られたために、アルゴリズム等は従順に設定されていた。その後消費者のニーズに応えるために多彩なモデルのロールアウトが続いた。行為の要求に対して若干の拒否を示すだけの意識を付与したり、あるいは逆にただ性交のみ実行可能なようにDI器官(下記参照)未搭載の廉価モデルなど、様々なモデルが市場に流通した。 ■ DI器官 ダイナミック・イクイリブリアム器官の略。位相空間上の閉じたケイ素生命系に、動的平衡を維持する装置。早い話がM.A.I.D.に意識を付加するもの。 ■ 貴族の醜聞 やんごとなき方の乱痴気騒ぎみたいなものを、マスコミにすっぱ抜かれたとでも思って下さいな。 ■ 慈悲もなく云々 佐藤大介著『皇国の守護者』からの引用。正しくは『許容もなく慈悲もなく』…だが、実のところ原作小説を読んでおらず、漫画家伊藤悠によるコミックス版からの引用となる。これを機に読んでみるか? そいやマンガ大賞2008にノミネートされてたっけ。 ■ M.A.J.O.(魔女) 『Murderous Atypical Jack 'O』の略称。 - 上記文章の無断転載を禁じます - |