■ あかのやまい


――者些の尾巴子、直に是れ甚だ奇怪なり。
(無門関)


 ガラスケースを前にして、ミオ・トーンライムは黙って思案に暮れていた。厳重に密閉されたガラスケースの中では、一匹のラットが小刻みに震えている。寒さに凍えている訳でも、また恐怖におののいている訳でも、おそらくない。親から垂直感染した疾患による運動障害だろうことは、度重なる過去の実験から明らかだ。
 場所はミオの研究室。機能美に富んだ意匠の調度品ばかりが配置されていて、味気も色気も皆無に等しい。壁に隙間無く並べられた背の高い書棚には、ぎっしりと分厚い書籍が詰め込まれている。自他共に認める書恥の断片だ。
 その書棚に囲まれた部屋の真ん中で、ミオは両目をつぶり、眉根を寄せて難しい表情をしていた。ほぼミオの考えた通りの実験結果が得られた。今後の応用についてもある程度の算段がついている。
 残す一つの課題に、ミオの思考は余すところなく収斂されている。

 「ミオー。どこだー?」

 同居人にして家主の佐々木修次郎の間抜けな声に、玄関の方から呼ばれた。



 一瞬間だけ考えが中断するが、修次郎の相手をする必要などないと早々に見切りを付け、ミオはアルファベットの「E」で始まる単語について黙々と思索した。

 ――Episiotomy...
 ――Episodic...
 ――Episome...Episome...Episome...

 頭の中にある分厚い辞書の「E」の頁を猛烈な勢いで検索する傍ら、ミオは平行してスケジュールについて思考した。夕間暮れの斜陽を肴に、友人のメイトリアークと一献傾けることになっている。東方の一部地域でのみ流通している、珍しい酒が手に入ったのだ。またぞろ妙な話題に、時を忘れて語らうことになるに違いないが、それはそれでまた面白かろうなどとも思う。

 「お客さんだぞ。ここかー?」

 間延びした声が、ミオの自室の入り口辺りに移動した。デリカシィの欠片もない修次郎のことである。放っておけば婦女の部屋だろうと構わず、素知らぬ顔でズケズケと踏み入るに違いない。呼ばずとも行かずとも、勝手に目の前に現れるならば――

 ――Evoke...Evoked Potential...
 ――Evolute...
 ――Evolution...Evolution...Evolution...

 結果、やはりミオは修次郎の呼び声を無視して、「E」で始まる単語の検索を続けた。

 「Evolution――進化じゃ安直だよなぁ。Existence――存在にしようかな」

 誰にともなく、ミオはぽつりと呟いた。
 進化システムとしての赤の女王――他生物から採取した塩基配列を、Gの初期胚の遺伝子に逆転写する女王――の発見が、ミオに与えた影響は非常に大きい。同じ時代の科学者を尻目に、ミオ個人の叡智は大きく飛躍した。特にG特有遺伝子GAG(*)と、GAGを媒介するウィルスの発見は、ヒトにとっても、そして Gにとっても、応用次第では一利一害のシーズとなり得る。



 「なんだ。ミオ。いるなら返事ぐらいしろよ。お客だ――や、すいません。どうぞ、こちらに」

 修次郎が気持ちの悪い声で、客人――メイトリアークをミオの研究室に通した。
 果たして赤の女王ことメイトリアークが、何万匹もの猫を被って現れた。なるほど。道すがらぼんくら相手に媚を売ったに違いない。修次郎は修次郎で、鼻の下を伸ばしながら屈折した威厳を込めて案内したのだろう。
 修次郎の自信満々の表情が鼻についたミオは、冷ややかな目で初めて応対した。

 「まっこと無駄。リアーク。修次郎の遺伝子は役立たずのジャンクだから、色目を使うな」
 「お客人の前で何だ。それに僕を不能者みたいに言うのも聞き捨てならん」
 「修の字の下品な視線の方が礼を欠いているよ。それにオマエさんは不能者以下だ。才能がある訳でもない。加えて甲斐性もない。それでいて努力すらもしない。ないない尽くしのオマエさんがすがりついている学問だって、そこいらの一般学徒に毛が生えた程度。ジャンクDNAならぬインポDNA(*) じゃないか」

 ミオの下卑た痛罵の陰で、修次郎に対する興味が急激に失われていく様が、メイトリアークの表情にまざまざと表れた。わずかに濡れていた瞳はツンドラのように凍てつき、口元は白け、穏やかな微笑みはどこへやら、今にも落胆のため息を修次郎に吐きかねない雰囲気である。愚鈍な修次郎だけが、その変化に気付かないのだから、殊更に滑稽だ。

 「いっちょ前に抗弁でも垂れようってんなら、少しは耳を貸すが、いかんせん客人の手前だ。間違っても言い訳染みた泣き言だけは口にするでないよ。センセー」
 「結構だ!」

 一人憤慨する修次郎が、大股でミオの研究室を後にした。早々に引き下がったのは、矮小なプライドを保つためか。大きめの足音に若干の悲哀が感じられる。

 「これだから修次郎をいじるのは止められん――で、どうよ。良い遺伝子は残せたかい?」

 ミオはサディスティックに笑いながら、無表情を通り越して仏頂面をしたメイトリアークに話を振った。普段、表情に乏しいメイトリアークだが、これ見よがしに笑顔を振りまく時がある。すべからく男漁りの時だ。夜の褥(しとね)を濡らす算段に現を抜かすメイトリアークの表情は、平素の鉄面皮が嘘のように、大輪の華のごとき女子力を表す。あまりの変貌ぶりに、不思議を通り越して、異常とさえ思えるほどだ。
 返事の代わりか、白々しくメイトリアークがそっぽを向いた。そして、そのまま背を向けた。

 「その様子じゃ、またフラれたのだな。自棄んなっちゃダメだえ? 修の字なんぞを相手にしちまったらお仕舞いだよ。種の存続に関わる」

 メイトリアークが背中をミオに向けたまま、小さく首を振った。小さな肩が小刻みに震えている様子が、何とも愛らしい。男でなくとも、思わず手を差し伸べたくなるか弱さだ。

 「よしよし。泣くでない。失恋の痛みは酒と愚痴で癒すが良いよ」
 「この年齢になって、未だ殿方を知らないなんて――駄目な女ですよね」
 「五歳のオボコ娘が何を言うかと思えば。人間の雌など、そんな時分はまだまだ寝んねだ。気にするでないよ。ほれ。縁側で飲もうじゃないか」

 さめざめと泣くメイトリアークの背をさすりながら、震えるラットを残してミオは研究室を後にした。


 *


 メイトリアークはGである。世界を侵蝕する生物の、しかも希少種――前述の赤の女王に属する。広く一般的に大型の昆虫、あるいは害虫然りとした形質で知られるGだが、その実、メイトリアークの外見はヒトの女性のそれである。華奢な手足に丸みを帯びた体付き、愛嬌のある顔立ち、所作、言葉使い、どれを取ってもヒトの女性足り得るに十分な条件だ。そしてGである条件――GAGも、同時に併せ持っている。そのように生まれるよう、先代の赤の女王メイトリックスとミオによって創られたのだから当然である。反面、予期せぬ成長速度も備えてしまった。生れ落ちて五年が経つが、身体は既にヒトの女性に比して成人を迎えている。今や交配も充分可能なまでに成長した。
 中庭に面した縁側に移動した。
 ミオの珍奇な友人メイトリアークが、佐々木邸の中庭を見て一瞬間だけ泣き止んだ。生れた土地以外の文化を良く知らぬメイトリアークの目に、よほど興味深く映ったのだろうか。佐々木邸の中庭は、小さいながらも池を掘り、松を植えた楼蘭皇国風の造りをしている。ラヤード共和国の風土に馴染まぬ景観だが、沈む夕陽を背にした松の枝葉が、地に落とす影の揚々たる様は、いっかな遠く離れた地であろうとも、はるか東方の息吹を感じさせた。
 ミオは、黄瓜と茄子の糠漬けと酒瓶、二つのロックグラスを手に、未だ泣き止まぬメイトリアークの横に静かに腰を下ろした。

 「楼蘭のピクルスと麦の蒸留酒。どうぞ」

 メイトリアークの手に強引に、クリスタル製のグラスを握らせ、静かにゆっくりとミオは酒を注いだ。とくとくと注ぐ音が心地よい。酒精の香りもまた心をくすぐる。
 見ればメイトリアークもいつしか泣き止んでいた。

 「飲んでみ」

 赤の女王メイトリアーク当年五歳がおずおずと口を付けるや否や、目を丸くした。薫り高く、力強く、それでいて口当たり良く、のどを過ぎてなお口に残る酒精に、メイトリアークの泣きはらした目が喜びに薄っすらと濡れる。

 「じゃ私も――これは身体に毒だ。美味すぎる」

 暮れなずむ夕闇の中、お互いにさしつさされつ、酌を勧めていった。


 *


 落日から数十分が経過した頃、アルコールの匂いに釣られたか、もう一人の同居人――緑龍井(リュウ・ロンジン)が、のっそりと縁側に姿を見せた。外出時の風貌とは異なり――外向きの際、龍井は常にダークスーツを着用して行動する――鶯色の着流しに身を包んでいる。
 龍井は特殊なメードだ。メールと呼ばれる男性型メードというだけで充分に稀有だが、加えて龍井はさらにもう一つのエターナル・コアを内蔵する“Di- Pole Male”という種に分類される。ただ、どこの国にも機関にも属さず、技師の真似事をしているミオが不正に所有していることもあってか、Gに対する敵愾心や、ヒト社会への忠義染みた義務感とは無縁の自由人、ならぬ自由メールである。



 中庭を一瞥してから、龍井が、なぁ、とぶっきらぼうにミオに声をかけた。夜の帳が下りた庭には、縁側に置かれた小さな灯明と、虚空に浮かぶ月光がいよいよ凛々しい。

 「なぁ、ミオ。修次郎に何かしたか?」
 「インポ呼ばわりした」
 「スゲー不貞腐れてんぞ。アイツ」
 「ほっときなよ」

 少し困ったような、面倒臭そうな複雑な表情をした龍井が、ミオの隣でグラスを傾けているメイトリアークに目を止めた。龍井の視線に気付いたか、メイトリアークがグラスに口を付けたまま、ぱちくりと大きな目をしばたく。

 「そちらの美人さんは誰さん?」
 「紹介がまだだったね。コッチ友人のメイトリアーク。コッチ同居人の緑龍井」

 ミオを挟んで特殊なGとメードが初顔合わせをした。呉越同舟――ただし、素性を知ったところで、おそらくどちらにも敵意は芽生えないだろうが――であるにも関わらず、お互いに小さく目礼をする様子が、豪く滑稽だ。仕舞いには「初めまして」などと言い出す始末。
 たまらずミオは吹き出した。けらけらと高らかに笑うミオの声が、夜風に吹かれて涼しく響く。

 「そんな、かしこまらんでも良さそうなもんだが。や、さて、龍の字や。すまんが修次郎を呼んできとくれ。インポ先生にも、この酒を飲ましてやろうじゃないか」
 「スゲー言い様だな」

 いかにも面倒臭そうに龍井が了承した。


 *


 しかめっ面の修次郎を後ろに伴った龍井が、辟易した表情で縁側に戻った。
 一目見て呆れるミオに向かって、修次郎がふんと鼻を一つ鳴らした。ミオと目が合うだに、特大の嫌悪感をむき出してそっぽを向くあたり、相当に怒りの根が深いということを修次郎は強調したいらしい。

 「まだ、むくれてるのかい。仲直りの印に、ほれ、この通り良い酒を振舞おうってんだからさ。オマエさんも嫌いじゃなかろうよ。焼酎(*)だ」

 焼酎の一言に、修次郎の耳が器用にも、ぴくりと動いた。妙なところで芸達者なのだから、何とも可愛らしい。
 それでも頑なに目をそむけ続ける修次郎を尻目に、龍井がミオの横に腰を下ろした。そのまま手酌で、ミオ秘蔵の焼酎を嚥下する。咽喉を鳴らして飲む姿は、まさしくゴロツキそのものだ。

 「おお。美味ぇ。修次郎。これ飲まねぇってなぁ嘘だぞ」
 「楼蘭でもなかなか手に入らないって代物だよ。ああ。勿体無い勿体無い」

 甘露甘露と竹葉に酔う同居人達の様子に、修次郎がたまらず呻き声を漏らした。当然に耳ざといミオが、それを聞き漏らす訳がない。
 即座にグラスに並々と焼酎を注ぐと、修次郎の眼前にずいと差し出した。

 「ほれ」
 「――いや」
 「どうした」
 「しかし――」

 鼻腔をくすぐる芳醇な焼酎の香りに、修次郎が歯切れ悪く抗った。しかし、面前に突きつけられた酒からは、ついぞ視線は離れない。ただ引っ込みが付かないだけで、心の底では怒りなど、とうに手放しているのだ。
 だからミオは、口実を与えてやることにした。

 「アタシがこうして頭を下げているんだからさ。そうつれなくせんでおくれよ」
 「一度も謝っちゃいねぇだろ」
 「おだまり。龍の字」

 横合いから口を挟んだ龍井を一言で閉め出すと、ミオは修次郎の傍らに音もなく移動し、周りに聞こえぬよう言葉を潜めた。そして首筋に息を吹きかけるように言った。

 「修次郎や。お前さんを呼んだのは、実はアタシじゃない。メイトリアーク――あの娘だ。“私のせいで喧嘩させてしまっては申し訳ない”と言ってきかんのでな」
 「そんな。あちらの客人は関係ない」

 そうだね、その通りだなどと口では同意しながら、ミオは赤い舌をちろりと覗かせた。鳩が豆鉄砲をくったような顔をしている修次郎には、ミオの作為の痕跡を知る余裕など当然ない。

 「仲違いしてる場合じゃないんじゃなかろうかね?」

 ミオの虚言を口実に、修次郎が不承不承の体でグラスを受け取った。その影で、修次郎の安いプライドをへし折った満足感に、ミオは独り恍惚の表情を浮かべている。

 「じゃ、仕切り直しだね。乾杯」

 こうして縁側に四人がそろった。


 *


 日付が変わり、町が寝静まってなお、牛飲の類であるミオと龍井は、浴びるように酌を進めていた。秘蔵の焼酎を飲み干し、さらには洋の東西を問わず、次々と酒瓶をカラにしていった。ありとあらゆる酒瓶が、辺り一面に転がっている。それでも未だ飲み足りぬ風なのだから、目を疑うばかりだ。
 既に呂律の怪しい修次郎が、不明瞭な発音で口を開いた。

 「この、あー、なんだ、べ、別嬪さん」
 「あれ。寝ちまったかい」
 「これからだってのにな」

 真っ赤に染まったメイトリアークの寝顔を、三人が囲むように見下ろした。良い夢でも見ているのか、すうすうと落ち着いた寝息を発てている。
 修次郎がメイトリアークの頬にかかった前髪に、そっと手を伸ばした。絹糸よりもなお滑らかな髪を指先で除けて、赤らむメイトリアークの表情を凝望する。細面に大きく弧を描く目蓋、頬に月影を落とすほど長い睫毛、鼻梁はすっと通り、愛を湛えたような唇を隠している。

 「ちゃあみんぐだね」
 「やっぱり、まだまだ寝んねだ」
 「修次郎よか酒が弱ぇとはなぁ」

 メイトリアークのキャパシティを考慮せず、龍井のペースに合わせて次から次へと飲酒したことが、わずかばかり悔やまれた。もっと多くのことを話し合いたかったのだが、しかし、いかに声をかけようとも夢うつつの状態では、致し方ない。
 やれやれと嘆息して、ミオは重い腰を上げると、いやらしい目付きでメイトリアークの寝顔を覗き込んでいる修次郎を、蚊柱でも散らすかのように手で払った。娘同然の大事な客に、馬鹿の手垢が付くのを黙って見ていられるほど、ミオは人間ができていない。

 「命が惜しければ、この娘に手を出すんじゃないよ」

 命が惜しければ――ミオの不穏当な言葉に、修次郎が息を飲んだ。

 「龍の字。この娘を客間に運んでくれんかね。修の字は寝床の用意だ。ほれ。動いた動いた」

 ミオは修次郎を払った手で、男二人をさらに追い立てた。美人の退場は心底面白みに欠けるのだろうか、興が削がれたといった風の龍井と修次郎が、言葉もなく目を合わせる。
 仕方ねぇ――と言って先に動いたのは龍井だった。龍井に釣られるように、渋々と修次郎も席を立つ。
 龍井がメイトリアークの膝と脇を抱えた(*)。布団の用意のために、修次郎が先に立って、客間へと急ぐ。
 二人が屋敷の奥へと消えるのを見守ってから、ミオは自室――研究室へと足を向けた。


 *


 独り実験室に戻ったミオは、部屋の中央に放置していたガラスケースの前に立った。ガラスケースの中のラットは、透明な壁に囲まれた隅の方で、相変わらず小刻みに身体を震わせている。
 先までの飲酒量が嘘のような平静さでミオはラットを観察しながら、「E」から始まる単語の検索を再開した。しかし、既に十を超える言語を検索し終え、半ばミオの根気も底を突きかけていた。

 「Existence――かなぁ。やっぱり」

 妥協を好かぬがゆえに、ミオは己の語彙の限界をわずかばかり口惜しく思った。あれこれと研究と実験を積み重ねて得た成果物なのだから、最後の最後に妥協を挟みたくはない。しかし手にした技術と結果について考えに考えを重ねたが、いくらも他に良い言葉が浮かばぬのだから仕方ない。
 結局、非効率よりも合理を選んだ。こだわりと言えば聞こえは良いが、その実、職人気質も過ぎれば時間の浪費と同義だ。
 ガラスケースとラット一匹分の質量を両手に抱え、ミオは実験室を後にした。腕への負担は少ないが、それでも箸より重い。先の妥協も、思いのほか肩に重く圧し掛かる。
 人手を呼ぼうかと思った矢先に、客間から姿を現した龍井と修次郎に出くわした。言い付けた通りにメイトリアークを客間に運び、寝かし付けた後のようだ。

 「悪さはしなかったようだね。ご苦労さん」
 「客間に寝かしといたぞ――ってネズミ? ミオ。何だこれ。おい。無視するなって、おい」
 「龍の字。段平(*)は?」
 「ここにあるが」

 ガラスケースを押し付けられ、やいのやいのと喚き立てる修次郎を他所に、龍井が腰に落としていた楼蘭皇国製の刀――武鶴二尺七寸の柄に手をかけて、ミオに向かって示した。鯉口を切る龍井の動作に、修次郎が自然とおとなしくなる。
 満足そうにほくそ笑むミオの影で、修次郎がさも不満足そうに渋面を作った。

 「結構。じゃ飲み直そうかね」
 「このネズミは?」
 「開けるでないよ。命が惜しければね」

 ガラスケースの上蓋を開けようとする修次郎を、ミオは取ってつけたように優しい口調で静止した。命が惜しければ――再びの物騒なフレーズが象徴するように、ガラスケースの中では、歯を剥き出し、呼気荒く、双眸をかっと見開いて、ラットが全身を震わせている。瞳の赤が、いかにも不吉だ。

 「修次郎。ちょっくら、それ貸してくれ」

 修次郎の手から、龍井がガラスケースを取り上げた。片手に持ち、中のラットをはすに眺める。

 「命が惜しければ――ね。なぁミオ。この鼠。さっきの美人さんと同じにおいがするんだがなぁ」
 「におい? 臭くはないだろ。お客人とネズミを一緒にするヤツがあるか」
 「そういうにおいじゃなくてよ。なんつーんだ。雰囲気っつーか、気配っつーか。何かと似てんだよな。何だっけか」

 首をひねる龍井といぶかしむ修次郎を置いて、ミオは中庭へと続く廊下を進んだ。ミオの背後に、のろのろと足音が続く。

 「修次郎や。生物の形質を子孫に伝えるものを何と言う?」
 「DNAだろう。ミオがこの前言ってたじゃないか。最近アルトメリアの学者が、肺炎双球菌を用いてDNAが、遺伝の原因物質だと証明したと。それのことだろ?」
 「センセーにしちゃ上出来だ。よく覚えてたね。相補的な塩基同士が結びついて出来た、二重らせん構造の生物設計図だ。そのDNAからタンパク質のコード領域がRNAに転写され、リボソームがRNAからタンパク質を翻訳する。つまりタンパク質が合成される。修の字。オマエさんの酒の弱さは、アセトアルデヒド脱水素酵素の活性が低下してることに起因するが、元を辿ればDNAの変異にまで行き着く。もっとも修次郎の自制心の低さは後天的に形成されたんだろうけれども」

 自制が利かないから酒に飲まれるのだというミオの指摘に、余計なお世話だ――と修次郎が息巻いた。実際のところ、ミオの謂いは正しい。ザルなミオと龍井に付き合って、自らの領分をわきまえずに痛飲した結果、何度、無様な体たらくを晒したことか枚挙に暇がない。酒で失敗するタイプの典型が修次郎である。

 「タンパク質を合成するこの一連の流れは、一方向的であると考えるのが通説なんだが、実はそうじゃない。RNAの中には自らの塩基配列を、逆にDNAに転写する働きを持つものがある。この逆の転写は、ある種のウィルスの増殖過程で見られるんだが――」
 「な、何を――」
 「何が言いてぇんだよ」



 答えの見えぬ話に痺れを切らした龍井が、修次郎の言葉を遮って口を挟んだ。男二人、けして気の長い性質ではない。
 ミオは足を止め、亀裂のような笑みを浮かべながら、背後を歩く龍井と修次郎に緩々と向き直った。

 「メイトリアークはそのウィルスのキャリアだ。感染症なんて嫌だろう? だから間違っても手を出すんじゃないよ」
 「本当にそれだけか?」

 ミオの言明に押し黙る修次郎とは対照的に、龍井が釈然としない表情で反論した。ガラスケースの中では、龍井の視線を受けるラットが、キィキィと甲高い鳴声を上げている。
 肝を冷やした修次郎が、すっかり酔いのさめた風に、メイトリアークの寝る客間を恐る恐る振り返った。心中、劣情を覚えた記憶に、激しい戸惑いを覚えているのではあるまいか。

 「か、感染経路は?」
 「経路は交差感染と垂直感染のみ。そう心配するでないよ」

 修次郎が胸をなで下ろし、安堵の溜め息を漏らした。過ぎたアルコールのせいで真っ赤だった顔が、いまや真っ青になっている。何とも肝っ玉の小さいことである。
 聞き慣れぬ言葉に、龍井が顔をしかめた。

 「分かるように説明しろよ」
 「交差感染が血液感染で、垂直感染が母子感染だったはず――だよな? ミオ」
 「セックスしなけりゃ大丈夫」
 「梅毒みてぇなもんか。で、このネズミ。嗚呼。なるほど、ね」
 「な、何がなるほどなんだ。おい。そのネズミがどうしたって言うんだ」

 ミオと修次郎の説明から何を納得したのか、龍井がガラスケースの中のラットを見詰めたまま悪辣に笑った。修次郎だけが未だ状況を把握しきれておらず、情けない顔をさらに歪めながら、居心地悪そうにミオと龍井を交互に見比べている。

 「業の深いことをする」
 「だろう。その深さを今からご覧にいれようじゃないか」

 理解の遅い修次郎を置いて、ミオと龍井が中庭に出た。遅れて修次郎も、ヨタヨタと縁側に姿を現し、踏み石の上の草履をつっかけて、中庭に足を下ろす。夜も深まり、いささか肌寒い。庭の隅に植えた松の幹は夜の黒に没し、枝葉は闇に染まっている。池は虚空を映し、波立てず、静寂を湛えている。色彩に乏しい夜という漠然とした拡がりは、その朦朧模糊とした総体ゆえに、そこにある全てを例外なく平らかな静寂で包み込む。
 誰からともなく、空を仰いだ。
 天頂を渡る満月が、中庭に戻った三人を冴え冴えと見下ろしていた。あまりの月の目映さに、普段より一回りも二回りも大きく感じられる。まるで中庭で今から始まることを、夜空が巨大な目を見開いて、静かに刮目しているかのような光景だ。
 龍井が中庭の中央にガラスケースをそっと置くと、五歩後退し、経過を見守るように腕を組んで沈黙した。修次郎がその背後からガラスケースを見ようと首を伸ばす。
 ミオは一人、縁側に腰掛けて、煙管を取り出した。朱塗りの煙草盆を引き寄せて、ぼぉと煙管に火を灯す。
 舞台は整った。
 ガラスケースに静寂が満ちる。
 ラットの瞳に怯えの色が滲む。
 三人はただ時の足音を待つ。

 そしてミオは静かに微笑んだ。

 直後、ラットの肩が肥大した。見る見る内に肥大は肩から首へ、胸へと広がる。
 キィキィと甲高い鳴声は膨張するラット自らの肉に埋もれ、掠れてしじまに消える。
 分裂に分裂を繰り返す肉の悲鳴だけが、観察するミオと龍井と修次郎の耳朶に触れる。
 噴出す血しぶきに全身を染め、さらにその上を発達した筋骨で覆い隠す。
 グロテスクな光景に、修次郎が短く悲鳴を上げた。

 「あれは――なんなんだ」
 「ラットがG特有タンパク質GAPを合成しまくってるところだ」
 「Gの細胞でも移植したのか?」
 「んーん。それじゃタンパク質の合成が進む内に、GAPだけが遊離しちゃうだろうさ。あのラットにはメイトリアークの胎ん中のウィルスを参考にして作ったベクタ(*)を使ってさ、G特有の遺伝子をラットのDNAに逆転写したの」
 「な、なんだ、それは、つまり――どういうことだ?」
 「ラットがラットのままG化してるってこと。レトロウィルス性存在不全症候群“Retroviral Existence Deficiency syndrome:REDs(*)”とでも名付けようかね」
 「なるほどね。あの美人さんも、この鼠も、Gと同じ印象を受けたんだが、そういうことだったか」

 恐慌する修次郎、微笑むミオと深く納得する龍井、三者三様の反応の前で、ラットのG化が瞬く間に進行した。ガラスケース上部に頭が届き、肩幅は収まりきらず、足を折りたたむようにしている。
 そして実に呆気なく、ざらざらと音を発ててガラスケースは砕け散った。
 放逐されると同時に、ラットが全身を広げた。開放のカタルシスを味わうように、深紅の双眸をぎょろりと見開いて、そして一つ、ギィと月に向けてラットが吠えた。全長は修次郎の背丈を優に超え、折り重なった筋肉は凝集し、分厚く硬質な皮膚を形成している。前歯はさらに発達し、巨大な鍬のようだ。

 「ま、不味いんじゃないのか?」
 「予定じゃもちっと小さくなるはずだったんだけど。まぁいいや。実験成功ってことで。龍の字。ミッ○ーが瘴気を吐き出す前に処理お願いね」
 「ミッ○ー?」
 「あのラットのこと。苦しまぬよう一思いにやっておくれ」

 涼しい顔で煙管を吹かしているミオの言葉に、龍井が腰に落とした武鶴二尺七寸を抜刀した。月光を反射してぬらりと輝く刀が、正眼の位置にぴたりと止まる。
 瞬間、ラットが発達した後ろ足で地を蹴った。爆発的な加速度で、巨大な切歯をむき出して龍井に肉薄する。

 「げっ歯類はかじることにかけちゃ超プロ級だ。気をつけてな」

 ミオの蛇足な説明が終わる前に、ラットの切歯が噛み合わさる轟音が鳴り響いた。それも“かじる”などという生易しいレベルではなく、ギロチンによる断首を連想させる音だ。

 「しゃらくせぇ!」

 切歯の残響を、龍井の声が払った。龍井が位置するはラットの左側面。迫り来る噛み付きを紙一重でかわした姿勢のまま、下段からすり上げるようにラットの首筋に斬りかかる。
 しかし、ラットの頬袋に切っ先が喰い込んだ直後、鞭のようにしなる何かによって、龍井が弾き飛ばされた。

 「尾だね。しっぽ。げっ歯目ネズミ科の尾はうろこ状の皮膚で覆われていてね。G化とともに、大分強化されてんじゃないかね。気をつけなよ。龍の字」
 「言うのが遅ぇ!」

 中庭の端まで吹き飛ばされた龍井が、激昂した。

 「そもそもげっ歯類を舐めすぎだ。地球上で繁栄する哺乳類の内、四割以上をげっ歯類が占めている。こと厳しい環境への適応や進出という観点からして見れば、油断なんぞ到底覚える余地もないだろうに」

 遠間合いでは鉄の鞭のごとき尾を振るい、ふところに入っては切歯を用いるラットの制空圏は、武鶴二尺七寸のみを武器とする龍井よりもずっと広い。
 ラットが深く大きく、呻るように呼吸を数回繰り返した。

 「畜生の分際で生意気な」
 「龍井。瘴気を吐き出したみたいだよ。さっさとおし。それともデュベル君に代わるかい?」

 龍井が返事の代わりに、武鶴二尺七寸を正眼に構えて疾駆した。速く、かつ広い一歩で、飛ぶように距離を詰める。迎え撃つ強靭な鞭――ラットの尾をくぐり、迫る切歯を斬り落とす。

 「生死岸頭に於いて大自在を得ん(*)!」

 刹那、九重の白刃がラットを寸断した(*)。悲鳴一つ上げることなく、たちまちに命を簒奪されたラットの断片が、噎せ返るような血の臭いと共にあたりに散らばる。
 心底満足そうに、やんややんやとミオは歓喜の声を上げて、龍井の功をねぎらった。

 「見事見事。腕は衰えてないようだね」
 「ミオ。オメェ。一応聞くけどよ。こんなもん、どうするつもりだ」
 「REDsウィルスならレギオンの連中にでも売ろうかね。EARTHに恩を売るんなら、RNA干渉を流用した対G兵器かな」
 「と、取り合えず――」

 右往左往、顔を赤くしたり青くしたりしていただけの修次郎が、酷く辟易した表情で言った。

 「ここで実験はしてくれるな」
 「家主様。そりゃ当然さ。次は別の国で実験をするよ。どこにしようかね」

 瘴気の処理をしないとね――などと面倒くさそうに言いながらも、実験の成功にミオの足取りはいたって嬉々としていた。
 関心のなさそうな龍井が、紙巻煙草を一つ咥えて、夜空に向けて紫煙を吐いた。
 気の弱い修次郎だけが、知的好奇心で迷惑な実験の害を被る他所の国のことを、少しだけ憂慮した。ただし、それはすべからく自らには関係のない他人事の範疇での考えでしかないのだが。

 「さて飲み直そうじゃないか」

 ミオは朗らかに酒を飲み干した。


 *


■備考
□者些の尾巴子、直に是れ甚だ奇怪なり。
 無門関の牛過窓櫺から引用。尻尾ってなぁ、まさに奇っ怪だなぁ、と。他に良い文句が思い浮かばなかったんで引用した次第です。

□G特有遺伝子(G Anomalous Gene:GAG)
 Gのみが持つ特有のタンパク質(G Anomalous Protein:GAP)をコードする遺伝子。

□インポDNA
 後天的に獲得した形質を指して、DNA云々と揶揄することについては疑問を覚える。ただしミオの発言は、そういった考えの上にあることも付言しておく。

□焼酎
 ここでは「百年の孤独」を飲んでいるものとする。

□龍井がメイトリアークの膝と脇を抱えた
 いわゆる、お姫様抱っこ。

□段平(だんびら)
 刀。

□ベクタ
 目的の遺伝子を細胞内に導入する運び屋。今作ではレトロウィルスを用いているが、他にも様々な媒体が利用されている。

□レトロウィルス性存在不全症候群(Retroviral Existence Deficiency syndrome:REDs)
 ミオ作成のレトロウィルスは、タンパク質コード領域(特定のタンパク質の合成を決定するDNAの領域)にGAGを逆転写するが、メイトリアーク由来のウィルスは、GAGを非タンパク質コード領域(ジャンクDNAとも。近年では様々なRNAの働きを司っているとされ、研究に研究が重ねられている)に逆転写する。前者はG化のフローを恣意的に操作しているが、後者は長い年月をかけて人類の交配が進む内に顕在化し、「FRONT of MAID the another」の形質変化(ヒトのG化)の要因となった、という裏設定がある。また、作中でミオが「E」から始まる単語にこだわっていた理由は、赤の女王が胎内に持つウィルスを参考にベクタを作成したことを踏まえ、略語表記を「REDs」としたかったためである。ちなみに「Existence:実存、存在などの意」という単語の選定は、蜥蜴さんとジョニーさんからご協力、及びご示唆を頂いた。感謝!

□げっ歯類
 今作には四割以上と書いたが、wikiには半数以上とある。だって日比谷図書館の辞典には、そう書いてあったんだもん。

□生死岸頭得大自在
 “生死岸頭において大自在を得る”の意。無門関の趙州狗子から引用。

□刹那、九重の白刃がラットを寸断した
 仁王経には“一刹那の間に五百の消滅あり”とある。2の9乗で512分割した――かったんですが、九回斬ったからって、べき乗される訳じゃないですよね。書いてアップしてから気付きました。馬鹿の断片を残しておきます。


*


■雑記

あかシリーズはこれにて終了です。
ところどころ出来の悪い図を挿入しましたが、残業中の息抜きにPowerpointで作成しました。仕事しろって話ですね。本当に死んだ方が良い。

余談ですが、平成21年10月8日、ニッカウヰスキー製造の「竹鶴21年ピュアモルト」が酒類国際コンペティションのウィスキー部門で最高賞を受賞しました。国産モルトでは初めてとのこと。
特に意味はないです。飲みたいなー。

平成21年10月10日習作。

<了>


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