南小学校は各学年とも4クラス編成だったが、昭和二十二、三年、樺太本州製紙からの引き上げ、朝鮮や中国満州からの引き上げで子供が続々と転入して来た。
1クラス六十人以上も普通のことだった。私達二年四部は木造校舎二階東端っこ、廊下分広い教室が当てられた。そこは畳を上げた裁縫室だった。
ある時、ストーブのまわりで担任の(加藤)トキ先生から「ああ無情(レミゼラブル)」を読んでもらっていた。その中で、主人公ジャンバルジャンは犯罪者の烙印である腕の刺青を消そうとするシーンがあった。
先生は読んでいた。
「シャクドウ色の腕を捲くり上げ、ストーブで焼いた真っ赤な大きな“ノミ”を当てた」
そう聞くと、ジャンバルジャンの太腕の肉が焼け、煙りが立ち、音がするようだった。
二年生の私の頭の中は、大きい「ノミ=蚤」が真っ赤に焼けて、ジャンバルジャンの腕を焼く場面で一杯になった。フランスには、日本では考えられないほど大きな「ノミ=蚤」がいるものだな、と思っていた。
「蚤」が「鑿(ノミ)」の間違いだと気づくには、しばらく時間を要した。
戦争が終わったすぐだったので、戦前の教育を受けた先生方が戦後民主主義の教育するにもテキストはないし、指導の方法がよくわからなかっただろう。本を読んで聞かせるのが一番だった。テレビもない時代、生徒は静かに聞いていた。
渡り廊下を渡る小使いさんの鐘を聞くまで、トキ先生は本を読みつづけてくれた。
授業の初めと終わりに、正門左わきの「小使い室」から「チリン、チリン」と鐘を鳴らしてオジさんが渡り廊下を歩いた。当時、先生は腕時計していないし、教室にも時計は掛かっていなかった。
南小学校の旧木造校舎は二棟あり、渡り廊下でつながっていた。昭和二十二年、校舎と校舎の間は食糧増産のため麦畑になっていた。私達は入学式の写真がなかったから、最初学校でとったのが、その麦畑の前で先生と男子十人程度で撮ったグループ写真だ。
四年生になって、クラス全員そろって図書室で読書する時間があった。裁縫室と反対側、二階西側の奥になっていた図書室へ行った。
各自選んで本を読むことになった。私が選んだのは、「彦一トンチ話」だった。これなら面白いだろうと思って借りた。
一時間それを読んで図書館で過ごしたが、いわゆる文字ばかりで、理解に難儀した。内容はおぼろげながら分かるが、読書の習慣がないから楽しいと思えるにはほど遠かった。それが、本を読み慣れない人の気持ちだろう。
頭の中でイメージを構成する作業がスムースにいかないのだ。
読書というのは、文字を理解し単語と単語を結びつけ、一つの新しい概念(絵)を理解するわけだから、一連の作業に慣れないと楽しくない。難解な英語の文章を読んでいるようなものだった。それが始めて自力で読む読書だった。
六年二組になり、図書室の隣の隣、すぐ近くになった。
図書室に購入されたばかりの講談社の『少年少女世界名作全集』(二十冊)が我々の心を引きつけた。装丁のしっかりした分厚い単行本だったが、光沢紙で天然色の挿絵があり、挿絵から物語の内容を想像させた。戦後の物のない当時の本では画期的であった。
それ以来、クラスの仲間数人とこれらの本を競争して読んだ。その競争で読書にドップリ浸かってしまった。
第一巻が「ああ無情」二巻「家なき子」。あとは「家なき娘」「小公子」「小公女」「ロビンフッドの冒険」「トムソーヤの冒険」「ハックルベリーの冒険」「十五少年漂流記」「乞食王子」「鉄仮面」「三銃士」「岩窟王」「クオレ物語(母をたずねて3000里)」「即興詩人」「ジャングルブック」「ガリバー旅行記」とあり、第二十巻が「シェックスピア選集」(ベニスの商人、マクベス)だった。今思い出せない本が2冊あるが、一年間でほぼ全部読破した。
「家なき子」レミ少年の不幸な身の上に同情し、「小公子」の幸せ気分に浸って楽しめた。「カリバー」では、未知の世界に誘われた。本のなかには、楽しい気分が横溢していた。
文章も優しく書いてあるのがよかった。読んでいると、文章の流れが心地よく、内容が彷彿として、洋菓子を食べているような気分にさせられた。読書が他人に迷惑かけないし、こんな時期があったから読書好きになっていったのだろうと思う。
そういえば、担任のスミ子先生は「読書日記」をつけなさい、と口すっぱく注意していたが、そんな面倒なことと無視してしまった。また、「大人になってから読み直すと感じるものが違う」と聞かされた。実際「三銃士」を文庫で読んだけれど、子供のとき読んで感動したときほどの喜びがなかったな。
|