先生は南方の激戦地から復員したばかりだった。
南方で食う物がなくてネズミやトカゲ、ヘビを食べたと聞いたのは、この先生からだった。戦時中、中津も食糧難時代であったが、誰もネズミはよう食わなかった。先生は口数はすくなかったが、餓死寸前で地獄を見てきたのだろう。
戦争帰りの先生は気が立っているから子供を殴る。そういう評判だった。体格は大柄で、寡黙、従って怖いという印象を与えたのだろう。小学3、4年にそういう体罰をするわけではないから、私自身はそう怖い印象はない。
先生は夏休み、夜中に保古沼にテント張って、鯉を釣ったと話してくれた。
その中で、夕立にあたった話を聞いた。戦後数年、保古沼、根の上高原は観光化する前の原生林で、夕方雨が降り出すと、ほとんど真っ暗、1メートル先も見えない。もうテントの中で保古沼を前にして雨の上がるまで待つしかない。自然の巨大さを感じる話だった。
保古沼には、1メートル以上の鯉が相当数いるらしい。
昭和22年、原生林の保古沼はまだ釣りをしている人はほとんどいない場所だ。荒らされていない釣り場だった。
保古沼の近くには10メートルを超える太い孟宗竹が群生しているから、それを切り倒して竿にした。
早朝や夕方、人っ子一人いない山中で火を焚いて待っている先生の姿は、ロビンソン・クルーソーを重ね合わせて想像した。
仕掛けた孟宗竹の竿に鯉が掛かるとバタンと倒れる。それから先生は魚と格闘が始まる。釣り上げるまで、鯉と20〜30分、必死の戦いをするのだそうだ。聞いている子供には、まるで未開の地へ一人で行く冒険譚だった。
人のいない保古沼にいても、激戦の南方から、餓死寸前で地獄を見てようやく帰ってきた先生には、きっと怖いものは何もなかったかもしれない。人間社会より、自然の中で野趣溢れるすごし方が性に合っているのだろう。
南小学校では、四年生以上の児童は個性を伸ばす自由活動時間があった。私は「植物クラブ」を希望した。そのときの顧問が、戦争帰りのこの先生だった。
この「植物クラブ」は、学校の外に出る課外授業が多かった。できたばかりの三留(みどの)の水力ダムの見学や、木曽川の川辺観察など、相当遠くまで行った。学校の外を教育の場とするのは、先生はごく普通に考えているようだった。外の方が生き生きしていると感じた。
帰り、子どもたちを歩かせるの大変だから、道路を歩いていると、先生は手上げて通りかかるトラックを止めてヒッチハイクした。ヒッチハイクという言葉はなかったが、運転手に話掛け、それが当然のように頼んでいた。言葉は優しかったが、行きがかりの運転手にさえ、先生は上級将校の気風を感じさせたのかもしれない。
「乗ってもいい」と言われて、私もタイヤに足をかけ、トラックの荷台によじ登った。児童10数人、トラックに載せてもらって学校に帰ることがよくあった。こんなこと、今こんなことをやったら、親や校長がきっと大慌てするだろう。
4年生の夏休み、中津川駅から先生は「田立の滝」へ連れて行ってくれた。連れて行ってもらったのは、4年生と5年生10人ほど。
まだ、中央西線に田立駅ができる前のこと、坂下駅から歩いた、歩いた。坂本から田立まで、いまどき歩く人はいないだろう。
先生には軍隊の行軍と比べたら、なんてことはないだろうが、登り坂が多くて疲れた。小学生のわれわれにはきつかった。一番小さかった4年生の私が一緒に歩けなくなって遅れ始めた。
すると、先生にオンブしてくれた。子ども一人背負うくらい、戦地で倒れた戦友に肩を貸して行軍するよりずうっと楽だろう。先生は、私をオンブしても息を切らさず坂を登った。先生にオンブしてもらった経験は前にも後にもこのときのみだ。おかげで滝の前まで楽して連れて来てもらった。
昭和24年の8月、その時見た「田立の滝」の印象は強かった。高さも水の量も、周りとの調和が素晴らしい。滝を見る経験はこの後、19歳のとき伊豆の「浄連の滝」を見るまでない。
寡黙な実践行動から、なんとなく先生の内にあるものが見えたような気がした。言葉だけの教師にはないものがあるように思えた。戦争経験が先生を変え、まだ、先生の中では戦争が終わっていない、そんな印象もあった。
それから十七、八年くらい後、昭和30年代の終わり、川上(カオレ)に清流を利用したマスつり場があった。
大学の夏休み、帰省したとき、そのマスつり場へO君とバイクで行った。
マス釣り池は、餌(ソーセージ)をつけて放り込めば、すぐ釣れる。入れ食い状況だった。「釣った魚を池に戻さないように」と注意書きがあったほど。いかに釣らないかに気つかう釣り池だった。そこは村営レストランもであり、村の婦人会のおばさんたちが塩焼きにしたり、飲み物を運んだりしていた。
マスの塩焼きなど頼んで、食べた。
川上(カオレ)は先生の住まいの地とわかっていたから、「Y先生は健在ですか」と、小学校の恩師の安否を尋ねたら、意外な反応が返ってきて、びっくりした。
「あの人は変わり者だから、村の人と付き合わない」との返事だった。
正確な言葉を思い出せないが、ほとんど村八分同様になっている様子が感じられた。先生ならそんなこと気にしていないだろうな、と唐突に想像した。
今、東京に出て数十年たつが、中津周辺にはY=安江という姓はめった会わない。中津川市周辺には多く、南小学校には同姓の先生が二人おられた。
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