太平洋戦争、私の失ったもの
  幾千万の母あれど、我が母にまさる母なし
 ☆今後とも、励ましクリックよろしくね!
 人気ブログランキングへ  ↓   ↓
人気blogランキングへ  ご感想  お書きください。


 ゲンノショウコという植物を知っているだろうか。
 母は隣の石垣からドクダミに似たその葉を摘み、土鍋で煎じていた。煎じ始めると、部屋中独特の匂いが充満した。母は病気なのだと幼児の私にも感じられた。

 当時、今のように便利な電化製品がないから、主婦仕事は大変だった。毎朝ご飯は薪で炊き、洗濯は盥で洗い、炬燵は炭を起こさなければならなかった。少しくらい体調が悪くても、小さな子供が大勢いる主婦は休むひまがなかった。徐々に母の病状は悪化していたのだろう。家政婦を頼もうとしても、病気が病気だから来てくれる人がいなかった。

 戦中の物のない時代、結核は贅沢病だ、死病だと嫌われていた。ゆっくり休養して、栄養のあるものを食べる以外、薬や治療方法はないに等しかった。
 動物性たんぱく質が栄養のあるもの代表であったが、肉は手にはいらない。幸い、うちは精麦をやっていたから、麦ならあった。釣りのうまい人は木曽川で釣った魚、鮎やヤマメを持ってきてくれたので、麦と交換して母に食べさせた。

 戦後、アメリカから結核特効薬ストレプトマイシンが入って来て、「あと一年長らえたら、母は助かった」と軍医になっていた兄はとても残念がっていた。

 いつも母がトイレへ連れて行ってくれるのに、その夜、私を連れて行くのが父だった。母がいない、と機嫌を損ねた。泣きながら部屋の中を見ると、灯火管制下の電球の周りに黒い布をたらした明かりの下、知らない人が数人いた。
 母が大出血して、家に医師が呼ばれていたのだ。その夜からすぐ花菱町の林病院へ入院することになった。その日母は家を出て、再び家に戻ることはできなかった。

 既に母の体は結核が全身に転移して、手術できる状態ではないと言われた。結核は抵抗力の弱い子供にはうつるから、入院して以来、子供を誰も寄せつけないようにしていた。七人の子供から離れて結核が移らないことを母は願っていただろうが、専心療養せよといわれても、子供を忘れて寝ている気持ちになれただろうか。

 母の死がやがてやって来るものとは、大人はみんな分かっていた。
 家で食事を作り、母のいる林病院まで小5の兄について持って行った。その頃、母は自分の体力回復だけを考えてか、あるいは自分の業病が子供に移らないように配慮してか、私に声を掛けてくれなかった。子供に関心ない態度だった。

 母の死の一ヵ月前、母の弟(日出吉叔父)が兵役から一時帰郷し、病院へ見舞いに来た。母はもう起き上がれなくなっていた。
 その時、涙を流して「子供に会いたい」と切々と訴えていたという。死期を悟って遺言のつもりで語っていたのだろう。そのことを私が知ったのは、二十歳を過ぎてからだった。

 そして、終戦の年三月、何が起こったかよく判らなかった。
 仏壇を飾ったり、朝早くから家の中はざわついて、大人たちは忙しそうだった。林病院から母の遺骸が運ばれてきてようやく私にも事情が判った。母との縁はほんの僅かな歳月だった。享年三十八歳。

 ツベルクリン検査をする度に、小学校、中学時代、私の腕には大きな二重輪の陽性がいつも出た。母が形見に残してくれたのだろうか。

 過日、還暦の集いが中学の同窓会と同時に開かれ、故郷中津川へ来た時、子供時代の友人と86歳の彼の母に会う機会を得た。
 彼の母と会話すると、何か地面の上でボール投げしているような、地についた人間関係がそこにあると思えるのだった。「母なる大地」というが、友人と友人の母親の間にそれがある。「この安堵感はなんだろう。」彼に聞くと
「そんなもの当たり前だから、なんとも感じない」という。

幾千万の母あれど、我が母にまさる母なし」という言葉があるが、私が(太平洋)戦争で失ったものは、この「母」との温かい親子関係だったのかと思う。
☆今後とも、励ましクリックよろしくね!
 人気ブログランキングへ  ↓   ↓
人気blogランキングへ  ご感想  お書きください。

目次へ