我が家の忘れられない日
昭和20年3月20日、滅多来ない親戚の人や近所に人が出入りして、朝早くから周りがあわただしい様子だった。
私は長く続いた百日咳がようやく治っていたが、まだ半日は一人寝巻の着物のままで過ごしていた。その朝も寝巻のわきに手を入れて、家の中の様子を見ていた。
「ツネオを連れていくのかえ」T兄(15歳)が父に聞いていた。
「寒いからえいわ」私の健康を考えての父の返事だった。
「トウちゃんがそういうから、(家に)おれよ。すぐ来るでナ」
そう言うと、家にいる人たちはみんな出かけ、がらんとしてしまった。
その日は、前夜から長姉は帰って来ていなかった。ちょっと帰ってきた姉は、また出ていった。誰も私に説明してくれないので、事が飲み込めないでいた。おおごとが起きたんだナ…、とぼんやりと感じた。
おおごと、といえば、入院していた母が死ぬ…、これしかない。
二年近く母と離れて暮らしていたので、5歳の少年の心には、死の怖さも母のいなくなった寂しさも、その時は何もなかった。変わりはなかった。
ただ、ガランとした家に近所のおばさんが留守番に残っているだけの中に、所在無さがさびしかっただけだった。このあとにじわり、とやってくる悲しさ、淋しさ、それらが募ってくることはわかっていなかった。
仏壇がまず運び込まれて、奥の部屋の右隅に置かれた。昼近くになって、焼き場から白い布で包まれた遺骨が運ばれてきた。
母は病院から直接焼き場へ運ばれた。結核で死んだ遺体は家には運ばないかないのが、常識だった。私は母の死顔を見ないでしまった。5歳では判断がつかないが、今思えば、見ておきたかった。
すぐ仏壇に花が飾られ、骨壷の白い包みが置かれ、お線香が煙っていた。仏壇が新しいせいか、仏壇の周りに飾りが金色でにぎやかな祭りのように見えた。
母は38歳で、21歳の長男、19歳の長女、16歳の次男、12歳の三男、9歳の次女、5歳の私。弟は一歳、計7人の子どもを残して逝ってしまった。特に泣き崩れるというシーンはなかったが、家庭に空洞ができたのは確かだった。
戦前は近所でも当たり前のように子どもが多かった。
「生めよ、増やせよ、国の宝!」
東條内閣の国策スローガンに忠実に従ったのだろうか。
後年、母の死の当日、隣の病室にきた見舞い客(栄町のIさん)が母の臨終に遭遇したという話をきいた。あの野沢商店の人だと、十数年たっても、その人はよく覚えていた。母の死が「野沢家の落日」の始まりだとはわからなかっただろうが。
母の死は、19歳の長姉には大きなショックだったろう。
姉は気丈に母の布団を家に持ち帰り、五右衛門風呂でお湯を沸騰させ、母の寝ていた布団や着物を煮沸消毒していた。私は何も手伝えないので、姉のやることを見守るだけだった。
一人で、汗を流しながら、釜の中の布団をさおで掻きまわしていた姉の姿を思い出す。母が死んだという事実が私の心に染込んでいくのが感じられた。
3月に母が死に、4月は私の小学校の入学だったから姉がまるで母の代わりになっていた。
母の遺骨は中村にある墓地に埋葬した。
墓石もなく、父が墓地のちかくにあった子供の頭程度の大きさに石を拾ってきた。恥ずかしいような石の墓だった。こんな石の墓石では、兄や姉には不満であったろう。
父が墓石を作らないので、若い兄は意地になって母の墓石を注文した。戒名が母の名前だけだった。野沢家の墓石にしたかった父には困ったことだった。これも我が家の争いのタネになった。
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