職業実習期間

「生徒工場」木銃作った
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「農繁期休み」といっても、農家の子供は使われて働くが、それ以外の商店の子は遊んでしまう。
 かつて中津の町でも農家のほうが圧倒的に多かったが、昭和27年ころ、農家は半分程度だった。子供が手伝わなくては労働力がないという家は、少なくなっていた。
 
 私の家も専業農家ではないし、家は町の中にあったから、子供が学校を休んでまで手伝うことはなかった。それでも、日曜日、子野の田植えは手伝わされた。そのころ、子野は田んぼばかりだった。
 田んぼに仕切り線を張って、苗を二列ずつ植えた。泥土に苗の根っこを人差し指と中指で押し込み、植えつけるのは上手になった。
 
 素人集団で作業するから、遅くなる。稲刈りには周りが暗くなり、月明かりで稲をはざにかけた。一週間後には、足踏み脱穀機で脱穀して袋詰めしてリヤカーで運んだ。この時も夜9時過ぎた。
 厳しい労働で体の筋肉は疲れきった。泥田の田植え、遅くまでかかる稲刈り、脱穀、将来百姓にはなりたいとは思えなかった。
 
 この非効率の米作りに不平を言ったのか、態度に出たのかもしれない。
 「田植えの経験や稲をわらで束ねたことは、偉くなったとき価値がある」と母は言った。
 オレが偉くなるとでも期待しているのか、あるいは、母の若かったころの誰をイメージしてしゃべっているのかな、と思った記憶はある。
 
 そんな母の御託より、対価として、なにかうまいものを食べさせてくれることを期待した。しかし、お金をもらったでも、おいしいものをご馳走してくれたわけではない。昔の親はそんなものだった。
 
 農繁期休みは、農家の子供以外は遊びほけて困るという声で「職業実習期間」という名称で、いかに労働を学ばせるかを三宅武夫校長が考えたものだった。アディアとしては、今のゆとり教育の先取りみたいなものだった。
  
 学校が町の中の職場に声をかけて、中学生を受け入れてくれるよう頼んであったようだ。青果市場や商工会議所、工場、機関区など希望者を募って行かせた。
 中学生が行って役立つような職場はなかっただろう。かえって邪魔だったくらいだろう。町の大人たちは協力してくれた。
 
 酒屋のO君は、機関区で蒸気機関車の釜炊きを経験したと言っていた。六十歳を過ぎても、その経験を鮮明に覚えている。
 機関車に乗り込み、実際に燃える釜で作業をしてきた。釜に石炭を放り込む作業でもコツがある。釜の中が平均に火が燃え盛るよう石炭を放り込むんだ、と身振りをつけて語っていた。
 
 「職業実習期間」が一週間過ぎて、最後の日に商工会議所に行った生徒は一人500円ずつもらった。そんなうわさがあった。500円は今なら5000円から1万円くらいだろう。
 うまいことやったな、俺も商工会議所に行けばよかった。あいつらウマイコトやった。そんな感じだった。
 これは、先生方も生徒たちも問題にして騒動になった。しかし、そのお金を返したとは聞かなかった。
 
 学校内でも職業訓練として、写真、木工などいろいろ考えられていた。構内の施設を使って、職業に理解を深めようとする企画だった。

 二中では「生徒工場」という作業場があって、その中は、木工があり、作業台や道具がそろっていた。大工さんもいた。大工さんが岐阜県体の卓球台を受注して作っていたのは見た。
 あと、活版印刷の活字をそろえていて、運動会のプログラムなど印刷していた。謄写版印刷が普通だったころ、わが二中は斬新な技術学校だったかもしれない。
 
 職業実習期間前、何をするか、希望を書いて出さなければならなかった。
 私は「写真」と提出しようと思った。新しい技術を身につけたいと願っていた。私は、すでに新奇な物好きがここで芽生えていた。
 しかし、母はこんな写真を覚えても金持ちの遊び、道楽と見たようだ。反対して、木工をやるように指示した。
 
 かんなや、のこぎりが使える実務ができる人間がすきなんだと思えた。将来、手に職をもっていてほしいと思っているようだった。私も親の願うことを聞いて木工を志願した。
 家で木片を集め釘と金槌で工作をしているとそれを母は楽しそうに見ていた。大工が好きみたいだった。
 
 大正時代に育った女には、大工さんの技術は将来食いはぐれがないと思えたのかもしれない。それにくらべると写真はいかにも道楽にしか見えなかっただろう。
 
 今でもあの時、現像技術を身につけていたら、もっと画像処理に習熟しただろうにと思う。
 

 木工実習は「生徒工場」で行われていた。
 友達は、まじめに本立てとか、小物を作っていた。先生という人は誰もいなかった。生徒が勝手にコツコツ作業していた。
 
 これ幸いと、私は木銃を作った。誰もいけないと禁止する人はいなかったから、堂々と作業を続けた。
 
 木銃というのは、ゴムカン(二股の木にゴムをつけて石を飛ばす武器)の機能を銃にしたもの。
 この作り方は、子供の科学雑誌に載っていたのを実際に作ったのは聖ちゃんらしいが、それを本町の悪ガキたちが真似て作ったもにだった。
 ふつうのゴムカンより狙いが安定するし、強力のゴムが使えた。スズメによく当たって落ちた。
 
 スズメを打ち落とすのは、この頃の常識だった。今時の愛鳥意識など微塵もなかった。
 
 木銃を持ってきて、それを見本にして作っていると、だんだん注目され始めた。だいたい模範生作品は、害はないが刺激もない。ところが、木銃は、害はあるし、刺激もある。
 
 Mちゃん
が興味深そうに近寄ってきて、私の作品を真似て次の日から作り始めた。瞬く間にこの木銃は男の子たちが数人真似して作った。
 昭和町や中村のスズメが減ったかもしれない。
 
 かくして、私の「職業実習期間」は終わった。
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 卒業してからMちゃんに町で会うと、子分を連れていた。稲川系の構成員だった。「つねちゃん!」と親しく声掛けてきて、私には怖いお兄さんではなかった。その後、面倒を見ていた子分に刺されて死んだという噂だった。  それ以前、杉野町のひとつ年上の女性と心中騒動を起こしたと聞いた。押入れから出されたとき、二人は真っ裸でという噂だった。

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