「勝負に貪欲」ということを知ったのは、「横町子ども相撲大会」で横町のY君と対戦したときだった。相撲大会は、当時仁科酒店隣りの空き地だった場所で行われた。
家が近いこともあって、5年生ころから、ちょくちょくY君の家に遊びに行ったり、勉強しに行っていた。
初めて電話が掛かってきたのは4年生のときだった
当時の電話は壁掛け箱型で、筒状の受話器を外してベルをグルグルまわして電話局を呼び出し、送話口から相手番号を告げるとつないでくれた。
「常雄、電話だ」と、
兄に呼ばれたが、私に電話が掛かってくると予想していなかったから腰が引けた。出てみると、Y君だった。それから彼はよく電話してきた。
南小学校児童会の会長もやっていて、Y君は物怖じしない子だった。。
彼の家は横町の「白木屋」という仕立て屋さんで、通りに面した店では数人の女性がミシンを踏んでいた。裏庭が広く、蔵があった。
蔵には中二階の隠し部屋があった。江戸時代、中仙道道沿いの宿場町には裏の商売、賭博が行われていたということだ。これはY君も知らなかったらしい。高校生になってから教えてくれた。
彼の家へ行って勉強していたときのことである。
二階へお母さんが上がってきて二人に漢字のテストをした。問題を読み上げて書かせた。その結果、自分の息子の方が成績がいいと、おばさんは「勝った」という表情を見せた。ここの家では競争を常に意識していると知った。
それまで私は、勝つということに執着した記憶がなかったから、勉強でも「勝つ」ことが大切な要素なんだな、と意識した。
中津の町に大相撲で十両まで上がった人がいた。
昭和26年当時、東富士や照国、鏡里、若乃花、栃錦、朝潮なら知っているが、後に出た「恵那桜」ほどはもてはやされていないから、「横町子ども相撲大会」で中津にも相撲取りがいたんだ、と初めて知った。
私が弱そうに見えたのか、Y君は対戦相手に私を選んだ。彼とは体格的にほぼ同じだった。ふだん兄と取組み相撲していたし、技もいくつか知っていたから、勝負は五分五分かな、オレの方が力あるだろう、と思っていた。負ける気はしなかった。
「手をついて」
蹲踞の姿勢から行司はいった。徒競走なら「用意!」といったところだ。
「手をついて」から手をつくタイミング、軍配が上がるタイミングは、1、2,3でスタートだろう。ところが、彼は1、2、3という前に立った。
ズルだ。早すぎると思ったが、行司は止めなかった。軍配が上がるこの0秒何か前、横井君は早く立ち上がってきた。私が力を出す前にあっという間に押し込まれた。
Y君となら当っても相撲になるはずだった。
軍配と同時か、その直前に踏み込まれるとは思っていなかったから、ズルズル。体格が同じだと、タイミングが勝負になる。私の方が体を瞬間によけてしまえば彼の力をまともに食わなかったが、このときはそこまで頭が回らなかった。相撲をさせてもらえず、あっけなく押し出された。
悔しくてなってしょうがなかった。
勝った彼は、得意げに賞品を貰っていた。よけいにくやしい気分が募った。
彼は怪力というタイプではないが、運動神経は優れていたのだろう。
スケートが得意で、後に明治大学の運動部へ特待生で大学に進んだ。500メートルを50秒台ですべると合格ラインだと言っていた。瞬発力はあるからそこで勝負するタイプだった。
二度目の対戦のチャンスが回ってきた。
そのときは、オレの負けず嫌いの性格がもろに出た。前の取組みの反省から、行司軍配と同時に出た。相手をくみとめてオレの力を充分出せる体勢をつくった。やっと勝つことができた。
賞品は三ツ矢サイダーだった。
水色の瓶に透明な色のサイダーが入っていた。意気揚揚と賞品を持って家に帰って自慢した。すぐに飲むのは惜しいから、机の上に飾っておいた。二日ほど経ってから飲んだ。
「?」なんか、ヘンだ。味がしない。サイダーの味が全然しない。ヘンだ。
よく見ると、王冠に栓抜きで空けた痕がついている。はっと気づいた。そうだ、飲まれてしまって水が入っているのだ。気づくまでに時間はかからなかった。
こういうことをするのはアノ兄貴しかいない。犯人はT兄だ!とわかった。
証拠も現場を見たわけでないし、根拠はないが、犯人はT兄だと確信した。
他の兄弟からは騙されたり、取られたりしたことはなかったが、既に何回か被害受けていたからだ。
T兄は悪い人ではないのに、弟妹にズルをして騙す事件が幾つかある。
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