近づく北恵那電車の 線路に耳あてた

菅井家には知的刺激に満ちた雰囲気があった
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 近づく北恵那電車の線路に 耳あてたナオちゃんトシちゃん
 昭和三十年代、菅井先生は退職して中津高校で講師となられていた。
 先生の英語授業は、一流国立大学に合格できるハイレベルだった。事実、先生の授業を受け現役で国立一期校に合格した生徒を続出していた。先生の風格のある姿は心に残る。

 菅井家は庭も屋敷も二つに区切られ、その半分を貸家にしていた。それでも子供心にはまだ広い感じがした。借家人も池が楽しめるように、池も柵で真二つに分けられていた。貸家の家賃は月額25円と周囲がみんな知っていた。

 昭和21年、アイスキャンデイ1本1円、翌年1円50銭、次の年2円50銭と戦後の物価は値上がりが激しかった。インフレ時代にもかかわらず、家賃をずうっと据え置きだった。

 借家人の方から「家賃を上げて欲しい」と申し出たのに、先生は断ったと子どもの耳にまで届いた。その話は物価の上昇に抵抗している菅井先生の良心を伝えるエピソードとして、驚き混じりに賞賛を大人たちが語っていた。

 菅井家は恵比寿神社(オウベッ様)の裏にあり、我家と近かった。長男ミッちゃん、次男ナオちゃん、三男トシちゃん。三兄弟は母を亡くし、男ばかりの家庭だった。ミッちゃんと6つ年上の兄が同じ年ということもあって、たびたび兄に付いて遊びに行ったことがある。「腰巾着」とヤユされるほど、私は兄の後ろにくっついて歩いた。

 その日、夏休みの宿題をやっていたのか、三兄弟は麦わら帽子を被って炎天下の庭に出て、葉の繁ったジャガイモを鉛筆画で描いていた。三人各様の絵だったが、よくこれだけ葉、茎、花を緻密に正確に書けるものだ、とその観察眼に驚いた。上がり込んで一緒に絵を書いたり、雑誌を見たり、菅井家には知的刺激に満ちた雰囲気があった。

 それから数日か、数カ月後に、三兄弟はヴァイオリンを習いはじめた。外から通ると、練習中のヴィオリンの音がよく聞こえた。まだ時々音程が外れて、独特のギーという音も混じっていた。が、それから四十年、ナオちゃんは職業(東大講師・麻酔医師)とは別に合奏団で演奏をしていると聞いた。

 昭和二十一年夏だったと思うが、「城山(苗木)へ水晶を取りに行こう」と兄たちに誘われたことがある。私が誘われるわけではないが、兄以外に遊び相手はいないから、離れるわけにはいかないから付いて行くわけだ。

 一輌しかないチンチン電車、北恵那線に乗った。木曽川を渡ったすぐの駅、玉造橋で下りる。駅降りて下を見ると、木曽川の流れが見えるちょっと危険な駅だった。そこから城山の坂を登りはじめた。その日は天気がよく、羽の透明のクマゼミが近くで鳴いていた。

 よじ登るという感じの細い険しい急坂だった。
 今の小学一年生だったら、きっと親が危ないから、と許さないだろう。よくこんな道を小学五、六年生が知っていたものだ。その後に遠足で行った苗木城址とは印象が全く違っていた。

 城山へ登る途中、兄たちは金槌で石を砕いていた。花崗岩で出来ている城山には、水晶は少なかったが、夏休みの研究「鉱石標本」を作るため各種の石を採集した。

 帰りに、玉造橋駅へ戻った。当時子供は腕時計など持っていない。あとどのくらい待てば電車がくるかわからないから、ナオちゃんやトシちゃんがホームから降り、線路に耳をあてた。今時の親が見たら腰を抜かしそうだが、菅井家の人達は平気だった。線路に耳をくっつけて電車の振動音を聞いていた。

 しばらく聞いていると、「電車が来た!」と二人が叫んだ。苗木方面から(中津行き)電車の姿が見えてきた。

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