太平洋戦争中の中津川市、昭和十九年から二十年頃の情景が私の脳裏にはいまだに焼きついている。
当時、太平洋戦争で南方諸島を奪われ、米軍のB29数十機が銀色を光らせて恵那山の上へほとんど毎日決まった時間に来た。敵機襲来すると、警戒警報のサイレンが町中に響き、中津のどこにいてもよく聞こえた。
その日も、警報が鳴ると、兄や姉たちは東小学校から帰ってきた。
家族は二階に集まって、窓から恵那山上空に繰り広げられていた敵機の編隊飛行を見ていた。朝から天気がよく、恵那山の上はすっきりした青い空だった。
そのとき、B29の編隊を見て、満1才の弟を負ぶっていた小学1年の姉は、「タク(卓司)ぼう!タクぼう!」と叫んで大慌だった。
赤ちゃんには防空頭巾などないから、「帽子をかぶせてやって」という意味だったが、大人は平然として、小1の姉のあわてぶりを笑っていた。姉は小学1年ながら、弟の命の心配してやっていたのだった。
中津にも三菱など、軍需品を製造する工場はあったが、都市の主要拠点の攻撃に忙しい米軍機から相手にされていなかった。だから、警戒警報が鳴ってもの中津の人々は安心していた。
毎日のように、敵の編隊は重低音を響かせ悠然と恵那山上空で旋回した。空に白い航跡をたくさん残して、名古屋方面か、東京方面に消えた。風がない日には、B29の排気で青空が曇るほどだった。
このころには、日本の空軍は弱体で、米軍への迎撃はどこからもなかった。ほとんど高射砲の攻撃はできなかったから、B29はゆうゆうと飛んでいた。
都会で機銃掃射を受けた人は「よく操縦士の顔が見えた」というが、中津ではそれはないから、今ならヘリコプターの飛ぶ高さより少し高いという程度を飛んでいたのだろう。
米軍機は太平洋(駿河湾)から恵那山を目印に飛んで来て、ここを岐点にしていると大人たちは話していた。
その光景は、中津川市の重要な歴史的ひとこま、市役所には写真として残されているかもしれない。私の書いていることは幼児期の記憶だから正確な記録とは違う点があると思う。お分かりになる人がいたら、ご指摘をお願いしたい。
昭和十九年の八月、ワイショ(祇園場)では、子供たちに「米英撃滅、ワイショ」と叫ばせていた。
そして、こんな歌が歌われていた。
「ルーズベルト(アメリカ大統領)のベルトが切れて、
チャーチル(イギリス首相)散る散る、
国が散る、国が散る」。
その一方で
「朝鮮人は哀れなものジャ、一日一銭、紙屑拾い」と侮蔑した歌も平気で歌っていた。
子供は溝を飛ぼうとしてできないと、戦時中こう言っていた。
「兵隊さんならできる」
その言葉は"水戸黄門の印籠"だった。つまり、子供たちは兵隊さんを畏敬の念で見ており、帝国軍人は偉大な存在だった。
陸軍の大隊が西宮神社(オウベッ様)の境内に露営したことがあった。
露営していたのは、木曽方面から名古屋へ行く途中の大隊だった。戦時下であっても行軍中の兵隊を近くで見るのは珍しく、神社の境内は見物人で混雑していた。
夏過ぎた頃か、まだ明るい夕刻、兵隊たちは食事の支度をしていた。
前後の脈絡はないが、
「ねぐそー!」
班長らしき兵が二等兵を突然大声で呼びつけた。
その先を見ると、一人の兵隊がこっちを向いた。気の弱そうな兵隊だった。社務所の近くで井戸水を汲んでいた。石積みのつるべ井戸である。
「ねぐそ!」「ねぐそ!」
他の兵隊からも呼ばれて彼は孤立していた。多分、寝る前に便所へ行き損なって「寝糞」をしたのだろう。
人格を踏みにじるようなあだなを平気でつける軍隊の日常をかいま見た。ずいぶん気の毒だったが、子供心にはおもしろいと思った。これが軍隊の異常さ、帝国陸軍の現実だったのだろう。
それから一年も経たないうちに、日本は戦争に負けた。
終戦の詔勅がラジオから流れていた時、大人はみんなラジオの前に集まっていたのだろう。周りに誰も人がいないようだった。シーンとして静かだった。近くの家からラジオからが聞こえてきた。
なぜか、幼児の私は一人中津水泳場の辺りを歩いていた記憶がある。
「耐えがたきを耐え......」
独特の節回しが響き、アブラゼミも安心して鳴いているようだった。
数カ月して、中村にあるわが家の墓の裏に、南方諸島「テニアン」にて戦死、という真新しい卒塔婆、墓標が建った。
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