大学教授になってからは遠い人だったけれど、若かりし頃の聖ちゃんは我々のよきオヤブンだった。初めてワイショの提灯行列に参加した時、聖ちゃんは中3で中清組(本町、竪清水町)の大将だった。
当時は、津島神社の前あたりに来ると、他の地区の行列も集まっていて石をぶつけて来るヤカラが一人二人は必ずいた。提灯行列の組の対立は考えられないほど激しかった。それを前もって察知して、聖ちゃんはみんなに用心させ、「こっちからやっちぁいかんゾ!」と抑えて回った。親達が付いて回るような保護はないから、野生丸出し、大げさにいえば、命がけだった。
提灯行列も夜になると、弓張提灯組の低学年の我々は疲れるし、全然どこを歩いているか分からない。「もうじき本町に帰るからな。元気に大きい声出せ」と聖ちゃんは行列の外側から励ましの声を掛けてくれた。
国道を行列していると、対向車がライトつけて近づいてくる。
「片目つぶって、通り過ぎたら開けろ」
片方を瞑ツムって車のライトが通り過ぎた後、瞑っていた片目で暗闇を見るわけだ。車のライトに両目の瞳孔を小さくさせないで、暗闇で見るコツを低学年の我々に分かりやすく教えてくれた。
ギョンバは、毎年交代で、当番地区の親たちに支えられて開催されていた。解散したあと、無料開放してくれて地元の銭湯にワイワイ入って帰ってきた。おもいっきりご飯が食べられるから、この時とばかりに食い、お土産をもらって帰る。男の子の特権だった。
それ以来、本町の同級生勲ちゃんと二人は、聖ちゃんによく休日に山や釣りなど遊びに連れて行ってもらった。聖ちゃんも子分連れ歩くのが好きだったのだろう。オヤブンは子分たちにホラもよく吹いていた。
「本町の裏の畑は全部子供の遊園地にする」とか、夢を語っていた。中津の市長になれば実現してくれたかもしれない。推されたら、立候補してきっと当選しただろう。その程度の人望はあった。
本州製紙の社宅になっていた吉田さん宅には、池があった。吉田さんがまだ工場長だったときはきれいな池だったが、一家が東京に引越ししてからは泥が底にたまっていた。
聖ちゃんは瓶に受け口のある漏斗をつかって泥の中の泡を集めていた。5年生の私には、不思議なことをすると思って見ていた。何度も棒で泥を突いて泡を集めていた。泥から燃料が取れると教えてくれた。
「メタンガスは燃えるんだ」
瓶に集めた気体にマッチを擦った。昼間は炎は見えにくかったが、確か燃えていた。昔中津でもメタンガスを供給する会社があったんだ、と聖ちゃんは言っていたことを思い出す。
山に連れて行ってくれた時、捕まえた虫を見せて、聖ちゃんは
「これは道案内する虫だ」
背中に青と金の筋模様が鮮やかな昆虫を手のひらにのせて見せてくれた。その虫を道の上に置くと、先へ先へと行き、人を道案内しているようだった。
「これはハンミョウという虫だ」
と教えてくれた。聖ちゃんは実に博学だった。
また、暗くなると空を見上げて、「あの星の横にあるもっと暗い星が見えるか。見えれば目がいい証拠だ」とか、ギリシャの星物語を話してくれたこともあった。
子供時代が豊かに過ごせたのは、聖ちゃんがの存在が大きいと思っている。
私が小学五年の時、中津の秋祭りでは本町は二人羽織という出し物で練り歩き、結構盛り上がった。
その時、本町の大人が主催でクイズをやった。あれは岩田(歯科)のオジさんあたりの企画ではないかと思っている。
おじさんは夕方、「ウォウォ」と外まで聞こえる声で謡曲(地歌)をお弟子さんに教えていた。意味が全然分からなかったが、世間のおじさんとは一味違っていた。子供会の世話を積極的にやる人だった。
倉前町から本町に出た突き当たり、吉田邸の塀に大きな団扇を立て、高さを当てるクイズが行われた。
子供にはこの高さは見当もつかなかった。ところが、聖ちゃんは多分、「三角関数」で学習した知識を使ったのだろう。直角二等辺三角の定規を目に当て前に行ったり、後ろに戻ったりしていた。団扇からの距離を調べ、団扇の高さ測っていた。そして、答えを「三・二八mだ」とこっそり教えてくれた。
私は、聖ちゃんから聞いた答えを書いて出しておいたら、バッチリ正解。同着2等で「野沢常雄」と名前を張り出され、数日後に賞品のガラスの醤油瓶をもらった。ところが、聖ちゃんは応募しなかったのか、名前はなかった。当てるのが興味の対象だったのだろう。
その頃、我々は西山のずっと奥にある神谷農園(の湖)か、第三(堤)へ釣りに行った。その帰りだった。聖ちゃんは目をつけるものが違っていた。
ジョークもやはり、相手を刺激しないとおもしろ味はないが、時には相手を間違えると、刃となる。お腹の大きい妊婦に出会って、通り過ぎた頃合いを見計らって、
「スイカ持っている!」
聖ちゃんはジョークを飛ばした。
臨月の主婦の姿はスイカを抱えている図であり、子どもには納得のできるジョークだった。乗せられてガキたちも「スイカ持っている!」と大声でハシャイだ。「スイカ」という言葉がその女性に聞こえたから、大変だ。
その妊婦は怒り心頭、
「学校で何習っている!先生に言ってやる」とやり返された。お腹の子が順調に育っていれば、もう四十歳半ばの歳になる。後に人を教える立場になった聖ちゃんも、これには参ったという様子だった。
木曽川の玉造橋の下は危ないから遊びに行ってはいけないといわれていたが、砂もあり、石もあり、浅瀬もあり、自然豊かな場所だった。木曽川沿いの砂浜は全く他人が近づかない、聖ちゃんと我々小学生の秘密結社のような場だった。
我々小学生がひとしきり遊んで砂浜に戻って来ると、聖ちゃんは砂を盛り上げ、肉感的な等身大の裸像を砂浜に作っていた。聖ちゃんは我々に多少の講釈をした後、砂の造形物にまたがった。「いいか、こうやって男と女は......」と実演して見せた。我々小坊主たちは呆気に取られたが、フーンとうなづくばかりだった。
当時大学受験は四当五落、「一日睡眠4時間で合格、5時間は不合格」と言われた頃だったが、聖ちゃんは勉強しているとか、努力している風を見せたことはなかった。
「勉強はガリガリやるものではない」「寝るときは寝る。毎日八時間睡眠を必ずとる」と言っていた。
もちろん私たちガキは、九時間十時間寝ていたから、それが短いも長いもわからなかったが。そして、現役で大学合格した。
その朝、聖ちゃん宅の表にある土間に集まってきたガキたち数人に、国立S大の合格の新聞に名前の出ている部分を見せて、聖ちゃんはいつになく嬉しそうだった。ガキたちに大学受験は苦労しなくても合格すると思わせた。
大学へ入って一年目、成瀬家が町会長やっていたから、一度ウチに町会のお使いで顔を見せたことがあった。大学にはいって数ヶ月で、急に聖ちゃんは大人ぽく、背も急に大きくなっていた。なんか眩しい存在に見え、もうそれからは聖ちゃんと一緒に遊ぶこともなかった。
何年か経った時には、彼は大学教授だった。そして、近年氏は急逝した。
(追記、ご冥福をお祈りしております。)
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