中学2年(昭和28年)の6月27日午前2時サイレンが鳴った。6回鳴った。熟睡していたが、飛び起きた。
火事はサイレンの鳴り方が決まっていた。ウチのエスは、サイレンに合わせて遠吠えをした。一つの芸だった。
本町の通りに出て空を見上げると、駅の方が炎で空が明るくなって見えた。遠く駒場から歩いてきて本町を通って火事を見に行く、そんな人が何人かいた。物好きなんだろうが、本町から私も火事を見に寝間着のまま炎の方へと人々の動きに従って流れていった。
その時の火事は栄町の旭パンのあたりだった。
午前2時といえば深夜も深夜、それにもかかわらず多くの人々が火事を見に起き出して集まっていた。見物人の群れは駅前公園の東端にいた。中央線中津川駅は鉄道建設の時、津島神社あたりから土を運び埋め立てた造成地である。だから小高くなっており、駅広場から栄町がよく見える。
栄町で12戸も焼けて、近来にない大火災だった。
鎮火までにかなり時間はかかっていた。消防の水のかけ方が、素人目から見ても下手。火元に水が届いていない。見ていて歯痒い。
寝間着のまま見ていたら、この夜中では、7月に近いといっても体が冷えてきた。夜中といえど、大人はたいていみんな着替えてきていた。私のように寝間着のまま出てくる人はいない。
12軒燃える火災を1時間以上は見ていて、やっとその愚かさに気づいた。鎮火されそうになって、炎も見えなくなったから、帰ることにした。近所の高校生(成瀬)聖ちゃんも駅前公園に来ていた。
行きは寝間着のまま夢中で火事の方へと歩いたが、ひっそりした深夜の商店街を一人帰るのは異様に恐いものだった。夜中の3時過ぎ一人歩くのは初めての経験だった。追いはぎに会うかと心配したが、寝間着姿の中学生を襲っても金目のものがあるはずないじゃないか、と一人笑ってしまった。
翌日夕方、市役所(当時の)前の英語塾へ行くまだ時間があったので、栄町の火事場へ見に行った。
検証好きな私は、全体でどれだけ燃えたのか、歩数を計ってみた。中学2年生の足で68歩だった。五十メートルくらいと考えればいいのか。中津では近来ない大火災といえる。
燃えた跡地には。独特の臭いがたちこめていた。キョロキョロと特に同級生の家の旭パン工場跡を見た。全焼ですべて燃えてしまっていた。パン屋創業から三、四年、お客さんもついて、順調に経営していた。これから発展という時期であっただろう。
旭パンのM君、たのしい少年だった。色白で瓜ざね顔の細身だった。
10円硬貨が初めて発行された年、彼はキラキラ光る10円銅貨を数枚持ってきて教室で見せていた。金回りのいい家だなとの印象をもった。二年上の姉さんは生徒会で活躍していて弟より目立ち、しっかり者との印象だった。
彼は高校へは行かなかった。火事が原因だろうと推測はできた。
中学を卒業すると、納豆と豆腐の曳売りを市内で始めた。私は高校へ行く道すがら彼に出会うことが案外多かった。知っている人と出会うと彼の顔を真っ赤になった。彼の肌白かったから、特にはっきり会いたくないという感じが見えた。
混乱した時代背景があるのかわからないが、同時期に中津高校は何度も火事になった。放火だと言われていた。火事になるたび、夜中飛び出して駅の公園から見た。
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