ローラースケート大流行

昭和二十六年 ターン字バック常識
 ☆今後とも、励ましクリックよろしくね!
 人気ブログランキングへ  ↓   ↓
人気blogランキングへ  ご感想  お書きください。

 子供の好奇心で、わざわざ緑町へ工事を見にいった。
 
駅前から丹羽紙店まで、緑町
がセメント道路にされたのは、昭和二十四年頃だった。アスファルト道路が舗装道路ではなかった。道路の半分を木枠に囲みセメントを流し込んでいた。緑町の淀川寄りから舗装しはじめた。
 その光景は中津の町も都会になるぞという印象だった。それから遅れること一、二年、太田町、新町、舗装道路はアスファルトで行われた。本町も舗装され道路がよくなった。セメントの道は緑町だけだった。

 昭和二六年、町が舗装されると、ローラースケートの流行が始まった。
 ネコも杓子も、と言っていいほどの大流行だった。昼間は車も走っているし、子供は学校へ行っているが、あまり交通の障害がなくなる夜七時過ぎころから、あちこちからローラースケートを持ち出して走り始めた。
 さすが低学年はこんな時間にはいないが、高校生や中学生が、夜中十時頃まで滑っていた。昔のローラースケートだから音もなく滑るわけにはいかない。ガラガラと騒音立てて町の中を走り回っていた。

 道路が子供の遊び場になっても、目くじら立てて禁止するほどの親や警察がいたとは思えなかった。学校では禁止していたはずだが、このことは子供の頭の片隅にさえなかった。
 ローラースケート場は、確かあった。駅から来て国道19号に出る角の製氷会社の前にできたと思ったが、いつも閑散としていたようだ。なにせ、狭い場所にお金払うより、街中を走り回るほうが、タダだし、スリルがある。

 スケート靴と呼べるものではなかった。ズック靴の下にスパイク状の四輪を金具で固定するローラースケートだった。足のサイズに合わせて伸縮できるところが、日本人の器用なところ。靴に付ける型で値段は一台560円。子供が独断では買うにはちょっとムリがある値段だった。

 近所の子が軒並み買っているのに、私が「買いたい」とねだらなかったら、逆に母親に不審がられた。
 その時、南小の図書館から借りた本「小公子」が紛失して、私自身がパニックっていた。母に肩叩きをさせられていたとき、「図書館の先生にお詫びの手紙を書いて出した」と話すと急転直下解決した。
 うちに隣接する恵那精麦事務所で働いている19歳の事務員、彼女が、階段の下に置いておいた本を無断で持って行って読んでいたのだ。それがわかって懸案解決、すっきり。
 早速ローラースケートを一台買ってもらった。

 本町からローラースケートで滑って集団遠征したものだった。今の暴走族ほどではないが、えらい騒音だったはずだ。金属の輪が集団で走るのだから。

 太田町や新町は都会だった。道路からして違う。そんな印象だった。

 本町の舗装と新町や太田町の側ではアスファルトの滑らかさが確実に違っていた。本町のアスファルト舗装は道路が小石が多く混ざっていて、ローラーがガタガタした。駅に近い中心街、新町や太田町の舗装は柔らかな滑りをした。このことは、本町住民としては被差別の意識で見た。

 二つの通りは、車一台通れば一杯で道路の狭さは変らないが、今でも太田町は商店街を遊歩道並みに改装して「時の鐘」が鳴ったりして、未だに差別されている。なんでも四つ目川の向こうが優遇されて、本町は田舎扱いされているという被害意識はいつもある。

 小学6年の私は遅くとも午後9時前後には滑るのをやめ、10時頃には寝た。
 高校生で夜遅くまで勉強していた兄貴が、私の許可なく気晴らしに深夜、勝手にローラースケートを使って滑っていたらしい。だいぶ転んだのだろう。体重が重いぶんローラースケートが故障しやすい。
 入っているベアリングが抜け落ちてそこから壊れる事が多い。兄貴が夜中に乗っているとは気づかず。翌日乗ると、なんか滑りがなめらかではない事が多かった。

 ローラースケートでターンや8の字バックは、町の子の常識だった。冬季オリンピックで三回点半ジャンプをして優勝した伊藤みどりは、母親が倉前町育ちだから、このローラースケートブームのときがもともとの出発点だったかな、とも思っている。

☆今後とも、励ましクリックよろしくね!
 人気ブログランキングへ  ↓   ↓
人気blogランキングへ  ご感想  お書きください。

目次へ