本町の通りに面している家で、商売をやっていない所はほとんどない。今は四つ目川の向こうの新町、太田町、緑町ほどの活気はないが、明治・大正時代までは街道沿いで中津の繁華街だったわけだから、プライドがないわけではない。商魂に関して、決して新興の緑町や太田町に引けを取るものではない。
中津の町全体でいえることであるが、商売で当たると思うと一気に広がる。
昭和20年代初めは、アイスキャンデー屋。アイスキャンデー屋はほんとうに多かった。店の外にはモーターの音が響き、アンモニアの匂いがしていた。氷で白くなった配管、真っ白く凍ったボックスを開けるとアイスキャンデーが入っていた。
一番繁盛した店は、十六銀行の横、今喫茶店ある場所にあったアイスキャンデー屋さんだった。うちの近くも、竪清水町のカネケ、横町のエハラ。中津のどこの裏通りにもアイスキャンディ屋が必ず一軒はあった。
その後に起こったのが、20年代後半のパチンコ屋開業ブーム。昭和30年代ではアパート開業がブームになった。その後、天下一家ねずみ講、お風呂にとりつけるジェットバブル、欲の皮の張ったブーム、騒動が起こったらしい。らしいというのは、私が中津を出てからのことだから、詳細は知らない。
パチンコは名古屋が発祥の地といわれるが、これは儲かると思うと一気に開業する人が続々と出た。その揺籃期のこと、中津でもパチンコブームというのだろうか、隣の家でパチンコ屋に改装し始めた。
隣の家は、昔自転車屋だったらしいが、私の子供のころは、なにもやってやってなかった。間口2間、奥行き2間か、もうちょっとあったかもしれないが、板の間の一階を店にした。
仕事始まるまでは、桑名から来た業者が設計から機械の導入、店の経営まで手配していた。業者の子、男の子が一人付いてきていた。私より一つ下で、日本人のようだが、どことなく肌合いが違う少年だった。
それでも子供同士、夏、市営プールによく一緒に泳ぎに行った。昔は,水着などというカッコいい物はない。黒の三角布に紐のついたモッコが主流だった。
プールの帰り、パチンコ屋の少年は、まだ使えるモッコを見つけた。それを自分の物にして使った。中津在住の田舎少年には他人の使ったモッコを使う勇気はなかった。この少年の神経の太さ、繊細さのないところは、異質なものを感じた。その後、少年のあだ名は「モッコ拾い」ということになった。
隣家のパチンコは台数多めにみても20台。こんなチッポケなパチンコ屋に人が集まるとは思えないのだが、それでも開業当時は人が集まっていた。ギャンブルは嫌いなうちの親父でさえ枯れ木もナントカの賑わい、と言って隣のパチンコに行っていた。
町に新名所ができたとなれば、子供も集まってくる。子供たちはカネはないから、パチンコやれるわけではない。ところが、時々玉が床に落ちている。それを拾ってやるのが楽しみ。それが10回に一回は入るんだよね、これが。
運がいいときは、一発でジャラジャラと出ることがある。
玉を穴に入れ、バネ一杯引いて放すと、クルクルクルと回って一番上の穴にストン!と、入ったときのうれしさってないね。一発の玉が20個になって、景気よくジャラジャラと出て来た。初期のパチンコ台は単純だった。
早速、景品に交換。拾った玉でも何でも入れば、勝ちは勝ち。玉20個を小さな窓口に出す。オバさんは「明治キャラメル」1箱渡してくれた。欲しがる友達にキャラメル一個、一個と渡して、残りは全部自分のもの。甘さを心行くまで味わう。思い出すのは、キャラメルの引き出しの裏にいろいろ豆知識と絵が書いてあったことだ。
パチンコ屋は二年も続いただろうか、いつ廃業したか、はっきりは覚えていない。いつの間にか、隣家のパチンコ屋は元の板の間に戻っていた。
その数年後、オジさんが急に痩せて、動きが鈍くなっていた。元々太った人ではないが、まるで骸骨みたいになり、日向ぼっこしている姿を二、三回見た。高校生だった私でさえ危ないと感じた。昭和30年の正月二日に亡くなった。
そのときは、パチンコ屋と結びつけて考えなかったが、今思うと事業がうまくいかなかったことが大きかったのではないか。一家を支えるには収入だ。気のやさしいオジさんがこのような仕事に手を出して、うまくいかないとすれば体に響くだろう。一人息子のTさんが学校を卒業したし、市役所に就職したから、オジさん、安心して息を引き取れたと思う。
駅前東デパートのすぐ近く、駅の広場の下にもパチンコがあった。横清水町の魚仲の前にもあった。名古屋の大手が進出してきてからは、弱小地元パチンコ屋はすべて淘汰されたのだろうか。
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