近江絹糸「人権スト」騒動

一九五四年(昭和二十九年)六月〜九月まで続いた
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 駅前通りの緑町一角が近江絹糸であるのは誰もが知ってはいた。しかし、塀でかこまれ、町の中に孤立した不思議な場所は、その中がどうなっているか、知られていなかった。
 今その場所は巨大スーパー「アピタ」となっている。近江絹糸「人権スト」と呼ばれた大騒動が起こった場所である。

 連日「人権スト」と新聞などで騒がれた。昔の野麦峠の「女工哀史」を引きずった感覚で一族経営をしていると、世間は知った。最初、中津以外の工場(近江絹糸彦根工場)から騒動が起こった。これが実に半年以上、連日新聞報道され続けた。

 昭和29年の夏だったと思う。中津の近江絹糸の従業員が列を作って、町中をプラカードを立ってデモ行進した。新町、本町から横町に向って進んで行った。この頃になると、一般の人々の中に従業員に対する同情が生まれていた。しかし、女子工員の多くは外をデモ行進するなど、勝手が違うというか、みんなに見られてなんか恥ずかしそうな様子だった。権利回復は当然のことだったが、まだ人権を無視された扱いに対して意識は低かった。

 中津は革新的風土が強いので、市内にある労働組合が一斉に「人権スト」に共鳴して、町の中で集会を開くことになった。秋口のある日、中津だけでなく近隣の市町村から労働組合と名のつく組織はすべて集まるという。動員数は一万人だという話だった。

 それに対して、警察は危機感を持った。占領下ではないが、かっての2.1ゼネストを断念した記憶が消えていないときだから、一万の労働組合員が集まるとなると、一波乱が起きても不思議ではない。町中に緊張が走っていた。

 子どもは見に行ってはいけないと止められたが、中学生の私は友達と町へ見に行った。夕方近かったが、まだまだ明るかった。大勢の一般市民は火事場見物のように立っていた。私も、「梅信」の近くから大人の群れの中に入って様子を見た。

 岐阜県警が中心になるべきだったろうに、何故か愛知県警、機動隊が並んでいた。名古屋ナンバーの装甲車が駅前から十一屋旅館、梅信の近くの道路までびっしり並んで威圧していた。機動隊員がヘルメットに出動服を着て、長い金剛杖のようなものを持って警戒して立っているから、道路は封鎖された状態だった。

 銅線を売りに行った駒場の古物商のおじさんに会ってしまった。
「あぶないから、帰ろよ!」
 そう言われても、こんな緊張感のあるおもしろい見物はない。火事よりめずらしい出来事だ。中津のような田舎に装甲車が列をなして集まるなんてないだろう。案外人だかりの前で見物していた。

 誰もが、今夜集会が行われたあと一波乱が起こると予想していた。だからこそ、機動隊が来ているのだろう。一万人の集会といえば、中津では前代未聞の規模だから、警備当局としては警戒する。数時間は見ていていたが、何も変化はないし、日は暮れてきた。暗くなるから、帰ってしまった。これが子供の限界だった。

 思想的な背景はわからなかったが、人権ストから端を発して、体制破壊へと進ませようと画策するグループもあったのだろう。見た人によると集会は予定通り終わって、警察や機動隊が規制した中をデモ行進をしたという。

 その中で、この規制を破ってかなりの波乱が行われたらしい。子どもの寝静まった後の出来事だったので、知らない人には知らないでいてくれ、みたいなことで大きく報道はされなかった。


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 参考資料
近江絹糸争議 働く者の人権守れ 
 一九五四年(昭和二十九年)六月から九月まで続いた近江絹糸の「百六日争議」は、同年六月十日付本紙社説が「労働争議というよりも、会社の異常な封建制に対する人権闘争である」と断じたほど、特異な出来事だった。近江絹糸に関する投書は六月中だけで九本も掲載され、読者の関心がいかに高かったかを物語る。


「スト決行中」ののぼりが立つ近江絹糸彦根工場(1954年8月13日)
 近江絹糸は当時、滋賀や大阪などに七つの工場を持ち、従業員約一万三千人。カネボウなど「十大紡」に並ぶ大企業だった。その従業員らが六月二日に組合を結成し、無期限ストに入ったのだが、その要求が信じられない内容だった。


信書の開封や仏教の強制反対、外出の自由、結婚の自由を守れ、密告者報奨制度反対――。本紙記事は"憲法擁護闘争"とも表現した。
 「『信書の開封、私物検査を即時停止せよ』(略)など実に悲壮である。(略)よくもこんな会社が存在しているとあきれざるを得ない。(略)戦後起こった労働組合のストには国民の不自由も不便もかえりみない一方的な行き過ぎストもあった。(略)しかしながらこの近江絹糸のストには全面的に援助を惜しまないものである」


 以後、「監督官庁はその職務を尽くせ」(十三日付)「近江絹糸労組鹿児島県人へ」(十四日付)など、連日のように投書が載る。やがて僧侶(そうりょ)が十六日付で登場し、「かれら(経営者側)のために仏教は非常に迷惑している」と説いた。全繊同盟近江絹糸争議対策中央本部委員は「近江絹糸の人権闘争と全繊」(二十一日付)と題して国民に理解を求めた。滋賀県の職業安定課長も二十四日付で「労働の民主化にはいま一層の努力をつくしたい」と投書せざるを得なかった。


 ついには戦時中に近江絹糸彦根工場に勤務した経験がある会社員が「井の中の会社側の皆さんへ」(二十九日付)で呼び掛ける。
 「つくづく感ずることは九年前の会社の状態と少しも変わっていないということです。(略)社会は日一日と進化しつつある。そして近江絹糸も同様発展しつつあるとせば、同時に労使双方の考え方も日一日と進歩して然るべきではないでしょうか」


 その後、乱闘事件や代議士の現地調査を経て、中労委が▽十大紡績並みの労働協約を結ぶ▽人権に関する事項について会社側は諸機関の指示に従い改める、などのあっせん案を提示、双方がこれを受け入れ、九月十六日に争議は収拾された。

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