大相撲高砂部屋 南小学校場所
幕下米川こと、横綱朝潮太郎は若かった
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 昭和26年秋、めずらしく中津川市に大相撲、高砂部屋が巡業にやって来たのだ。そして、南校の校庭で土俵を作って中津の市民に見せた。

 運動場の半分を使って幕を張り、桟敷席がつくられた。当日は南校の生徒だけでなく、近隣の学校からも見学にきていた。昭和町の高台からは無料で見えてしまうから随分タダ見の見物もいた。

 南小学校場所の前相撲までの時間は、若い衆が大きなトランクのような荷物(明け荷)を担ぎ、先輩の世話をしている姿は、相撲社会の厳しさを感じさせられた。小学生にはめずらしい光景だった。下っ端の練習は厳しく、強くなければ虫けら同然の扱いをされた。

 時の高砂部屋には横綱東富士(東京都出身)が興行の中心だった。他には、松登など数人幕内力士がいた。

 横綱東富士は体も大きく強かった。稽古相手に引き出されたのは、まだ十両にもなっていな青年だった。体の細い白いまわしをつけた力士だった。シコ名は、米川である。18歳になっていなかっただろう。

 横綱の相手となった米川はまだまだ弱かった。横綱と米川は、まるで中学生が幼稚園児を相手にしているようなものだった。

 大勢の見物人の前でしごかれて、あわれなのものだった。オモチャのように、こっちに投げられ転がり、あっちに放り投げられて転がって、米川の背中から腹は泥、泥、どろ。うで、足、顔、髪、泥まみれになっていた。

 奄美大島出身の米川は、眉が太くて体中が剛毛で覆われていた。色黒で胸も剛毛で覆われ、眼光鋭く、負けて転がっても、それでも音を上げないでぶつかっていった。その姿には闘志が見えた。
 横綱の土俵入りでは太刀持ちをさせてもらっていたから、高砂部屋の「ホープ」扱いをされているのだな、とわかった。

 土俵から飛び出し、ハアハアと息が上がっても、弱気な姿を見せると、周りにいる親方たちから竹箒でビシビシ殴られた。竹箒は土俵を掃き清めるためのものである。叩く強さ半端なものではない。桟敷に座っている私たちにも音はよく聞こえた。叩かれた若い米川はまた横綱に向って行った。見ている方が同情してしまうほどだ。

 高砂部屋では有望と思われてか、兄弟子たちからも可愛がられていた。可愛がられることは、つまりしごかれることであったが。

 ここで初めて「米川」という名前を覚えて、それから大相撲を注意してラジオで聞いたり、新聞で見ていた。その数年後、幕内に入って10勝くらいできる実力をつけて、順調に上がってきた。関脇になったのは、私が中学3年生になった頃だった。そこで、米川は高砂部屋の伝統的な名前、朝潮太郎という名前をもらった。

 前頭上位から関脇になった頃は、突っ張りの得意な新進気鋭の力士として、上位の大関栃錦、若乃花にも、危なげはあったが、よく勝った。強い力士に勝つ可能性がある力士だった。しかし、よく下位の力士に負けるという、意外性もあった。強さと意外性で人気があった。

 関脇から大関と昇進ときの、上位に対する強さは目を見張るものがあった。それが、横綱になった頃は体の故障を抱えて、関脇頃のような新進気鋭の強さは感じられなくなった。

 現役時代は強ければ優秀な力士で通るが、親方になってからは、いまいち頭角を現すタイプではなかったようだ。力士は長生きしないといわれるが、彼米川は疾うにいない。
 今の朝潮太郎は、土佐出身の別人である。

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