夏になると、忘れられてしまった一人の少女のことを思い出す。
わが家の前に、東京から実家へ引き上げてきた踊りの師匠が住んでいた。三十代前半か、という年格好だった。この人には私たちより三歳か四歳年下の女の子がいた。家には父親がいる様子はなかった。女の子もあまり近所の子と遊んではいなかったが、外から見る限りでは、その女の子が友達が欲しいとか、そんな様子は感じられなかった。
昭和二十二年、我が家では工場に隣接した家を全面的改築で大工さんが入って、到るところが木材が置かれていた。大工さんは墨入れから黒い糸を引き出しパチンと材木に鳴らし、カンナを掛けると柱になったり、廊下や手すりになった。大工さんは鉋をスーッとかけると鉋くずが長々と出てきて、あたり一面に木の匂いがし、作業台の回りは子供達には面白かった。隠れん坊するにしても隠れる場所がたくさんあった。
子供が側で見ていても、大工さんは何もいわないし、気にしている様子もなかった。改築中の家には住人がいないわけだから、子供が自由に遊べる場所だった。私は自分の家でありながら、遊び場のように感じていた。
近所のI君を仲間にして男の子数人が遊んでいた。建築中の家の縁側に立っていると、お師匠さん宅の女の子が入ってきて我々を見上げて言った。
「仲間に入れて」
器量は悪くはないし、どっちかといえば可愛い子だ。入れてもいいと内心感じていた。I君が言ったのか、その後ろにいた男の子が言ったのか不明だが、
「○○○見せたら入れてやる」
女の子が受け入れるはずのないことをわざと突きつけた。その女の子がどんな反応を示すか、それを楽しむ狙いがあったのかもしれない、多分。
誰か遊ぶ相手がいる中津に育った同年の女の子なら、そこまでして仲間に入って男の子と一緒に遊ぼうとしないだろう。この女の子は違った。
すると、その女の子は立ったまま、躊躇しないでスカート捲くってズロースを下ろした。そこには、確かに女の子のマークがあった。
「これでいい?」
中津の方言は使わない都会の雰囲気を持った女の子だった。
「よーし」
男の子たちの儀式が終わると緊張が溶けたような顔になっていた。男の子たちのいうことを聞いて一緒に遊ぶことになったが、そのあとこの子と遊んだ記憶はない。何をするわけでもないのに、このシーンだけはしっかりと覚えている。
この子の母親は芸事が得意な人だったので、町の人に「秋祭り」の踊りを教えるリーダーだった。「東京音頭」を踊りながら屋台船が巡行する時、母親は船の中で太鼓叩く音に合わせて三味線を引いていた。娘も化粧して踊りの輪の中で踊っていた。白粉がなんとなく似合う女の子だった。引っ込み思案な田舎の子とは違って派手な場が似合っていた。そういうことが好きなんだと思えた。
翌年の夏、一番暑いころ、数日か一週間ほど寝ついた。向かえの家だからわかりそうなものだが、そんな重体とは思えなかった。
しばらくすると、突然死んだと云って葬式が行われた。大勢の人が来るわけでもなかった。父なし子には、回りの大人にはあまり悲しんでいる様子もなかった。チフスか、赤痢か、医者に診察してもらった様子もなかった。可愛い子だったが、存在そのものが祝福されていなかったのかな...と思うと気の毒だった。
幸せ薄い子の母親はいつの間に中津を離れて行った。
今は東京で羽振りのいい某社長のオメカケさんをやっているとうわさを聞いた。出世したのだという。
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