国道の恵比寿神社の前の家から、橋を渡り、四ツ目川に沿って市営プールを回って、南校の講堂の前を通り、南小学校の入学式にへ行った。住んでいる家は東小学校の校区だったが、父の本町の家に住民票があるから南小学校に入学した。
私の小学校の入学式は、母が前年亡くなって、林病院で見習い医師をしていた長兄が付いていった。恵中の同級生の辻村さんが師範学校を出てその年から南小学校で先生になっていたから、親代わりにはちょうど良かった。昔はPTAは父兄会といっていたし、意識としては父の代わりは兄だった。
新一年生の私は経験ない世界に入るのだから、私は不安で緊張していた。幼稚園に行かなかった私は、集団行動するのは初めてだった。
四つ目川のところを歩いていると、兄貴は「いいか、クラスの大将になれ」といった。ケンカの強い男になれ、とハッパを掛けた。
サル山のサルと同様に必ず小学校のクラスにはボスがいた。各クラスとも、一番強い子どもが決められたものだ。1年から6年までクラスごとに何かあるとケンカに行った。
これが大将ということだな、と後から理解したが、長兄はこの大将に弟がなってくれたらなあ、と弟の入学にあたって、願望をかけたのだろう。期待しても、人には個性があるから、そうはいかない。
入学して慣れてくると、一年一組は隣の組ともう些細なことで集団で隣の教室へ押しかけてケンカしていた。隣の二組は体力のありそうな伊藤志郎君がボスだった。こっちの一組は知将派の兵頭君がボスとして仕切っていた。彼ン家は昭和30年代から地域新聞である「三野新聞」を発行している。
十五歳も離れていると、兄はまるで親のような感覚があった。東京で学生生活をしているから、親と違って進歩的だった。その進歩的が私には付いて行きにくい。
入学式の一週間前、私を竪清水町のハヤシ理髪店に連れて行き、都会風な刈上げスタイルにしてしまった。男の子はたいてい丸刈り、丸坊主である。田舎では他と違うのは、恥ずかしい。弟である私の気持ちを無視していた。
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入学の日、学校に着くと、兄貴は先生になった友達と話をしに行ってしまい、弟は放っておかれた。私は知っている人は一人もいないから不安だった。どうしていいかわからず、ぼやっとしていると、新入生は列を作ってどこかへ行ってしまい、教室はカラになってしまった。
誰もいなくなってから慌てた。うろうろして、職員室の前あたりに来たとき、六年生の女の子が「どうしたの?」声を掛けてくれた。女の子に連れられて講堂に行くと、校長が話を始めたところだった。
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小学校に入る前、ウチの兄弟はみな旭座の裏の幼稚園に行ったが、母の病気で、我が家は大混乱して幼稚園へ行かせてもらえなかった。唯一私だけが幼稚園へ行けなかった。だから、私は多くの子どもと行動を共にすることになれていなかった。ここに原因があるのだろう。
担任は、女の先生だった。先生は黒板の前に立つとチョークで
「カトウ スミヨ」と声を出しながら大きく書いた。
2、3歳で私はカタカナが読めたと、今でも姉たちが言っているが、私も読まされていたころのことを覚えている。
親父が親戚(丸仙)の家へ行って自慢していた。
新聞のカタカナを拾って「※ウチテシヤマム」(撃チテシ止マム)と読めた。
ところが、我が家の混乱で放っておかれたら、6歳の入学時には、カトウスミヨ先生の書いた文字は読めなかった。
最初の授業は、カバンから教科書や筆入れを出し、またしまうことだった。カバンに仕舞ったあと紐を蝶々結びでしばることが勉強だった。
カバンは陸軍の背嚢と同じ布で同じ作りになっていた。
色もカーキ色だった。東校のカバンと南校のでは微妙に違っていた。私は東校の物を貰っていたから、南校のカバンのほうが丈夫な布を使っていると思って、羨ましかった。しばる紐が東校のカバンは1年もすると弱くなって切れたが南校の紐は6年まで健在だったようだ。
このカバンを6年まで使う人が多かった。このカバンは布製だから、私もカバンも例に漏れず、弁当のおかずから垂れる汁のシミがついて黒く汚れていた。それでも6年間そのまま使っていた。
教室不足で二部授業だったから、私たち1年生は正午前には帰った。何か早いな、ウチに帰っても退屈なのに、と二宮金次郎の銅像を見ながら思ったものだ。
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