(岐阜県)中津川に縄文人がいた


女は器量やないなァ。やっぱり気性やで
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 中津川市の西に"西山Nishiyama"がある。

 近くにある星見が岩、夜烏
(yogarasu)、旭が岡、玉造橋(gyokuzoubashi)、恵那山に比べて、"西山"とは、実に平凡な地名と思う。その赤土の丘陵地は"ケーバジョウ"と呼ばれていたが、今もそう呼ぶのだろうか。
 昭和の初めに競馬を数年やった場所と聞いている。中津で行われていた競馬場は採算取れなくなって笠松競馬場に移し、それが今まで続いているのだそうだ。

 その西山の西端にわが家の畑があり、戦後食糧難時代からサツマイモやトウモロコシ、陸稲を作っていた。水を多く必要とするものはできなかった。
 小学生、中学生、高校生時代、休日に糞尿を運ぶ親父のリヤカーの後ろを押して行くのが仕事だった。糞尿は肥だめに入れて腐敗させ、完全な肥料にしてそれを野菜に撒いたわけだ。この自然農法は、町場育ちの少年には羞恥心の伴う作業だった。

 本町から倉前町、桃園町、京都二条大橋そっくりのコンクリート橋を渡って桃山、後田川に掛かるお岩の橋を通る。夏には、大勢子供たちが水に飛び込み泳いでいた。お薬師様の前を左に折れて、商業高校の方へ上っていく。あるいは、一中の近くから上る二つの道があった。

 その日はリヤカーを後ろから押し、商業高の坂道を西山の畑へ登った。
 途中、桃山の道路には側面の岩に穴があった。戦時中防空壕にしたとか、あるいは農産物の貯蔵庫だとか、岩に穴がやたら空いていた。
 西山は赤土だったから、たぶん噴火した火山灰で、桃山は全体がマグマの冷えた岩(花崗岩)ではないか、と想像している。だから、このあたりは地盤が固いのだろう。

 昭和24年、桃山の市場クンちで遊んでいたとき、かの有名な「福井の大地震」を経験した。
 田んぼの近くで立っていたら、地面がグラグラと揺れ、まわりの田んぼに波が立った。地震で地面が揺れるのを自覚するのは、私の経験でははじめてだったし、その後もない。町は相当の揺れだったと聞くが、桃山では田んぼに小波が立っただけで収まった。


 急坂の前の日陰で休憩していると、父の知り合いが坂の上から降りてきて一緒に一服した。

 「女は器量やないなァ。やっぱり気性やで」
 「そうや、そうや。そういうことやな」

 なぜそんな話になったか忘れたが、五十過ぎの男同志の言葉が心に残っている。話が弾んでいると、山の風が吹き汗が引く。そして、また登る。


 西山の畑は高台で水は全然出ないから、休憩小屋の屋根に降る雨水を古い風呂桶に溜めていた。畑に行くたびに蚊に刺されて痒かった。溜まり水にはボウフラも自然発生のように育っていたのだ。
 そして、肥料代わりに人糞を撒くから、銀蠅も多かった。弁当を食べていると、畑から飛んで来て、遠慮なく近くに寄ってきた。クワを休めていると、中空を黒アゲハ蝶が悠然と舞っていることもあった。
 小屋の横に捨てた種から桃の木が自然に大きく育っていた。

 不思議なことが一つあった。それは畑の中に貝殻が多数落ちていたことだ。
 中津高校に続く丘陵、松田地区には多数の縄文土器が出ているから、ここ西山にも縄文人が住んでいても不思議ではない。そして貝を食べていたのか。まあ貝といっても、アサリには似ていたが、この辺りは海はないからシジミだろうか。あるいは木曽川の流れが変わって水中のシジミが枯死したのか。

 東京に出て来る直前、西山の畑にジャガイモを植えに行った。昭和三十三年の三月だ。あの辺はまだあまり人家がなかった時代だった。そう思って五、六年前、歩いてみると、近代的な家々が建っていた。まるで隔世の観がある。

 一緒に西山の畑に行った父は、とうにこの世にはいない。
 故郷は、室生犀星の「たとえ異土の"かたい(=こじき)"となるとも、帰る所にあるまじ、遠きにありて思うもの」かもしれない。

 しかし、そろそろ書き残さないと過去の事実が露と消えてしまう。そう思って、徐々に書いておくことも必要かと思う。

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