ネズミの解剖、そして立ちション

ネズミは死んでも、精子はまだ生きているはず
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 昭和町から流れてきた川が、南小学校の運動場の回りには流れていた。
 理科実験室の前にある池にもその川の水が流れ込んでいた。昭和25年、池に雷魚が数匹飼われていた。

 当時(昭和20年代)南小学校にあった高等科の青校舎が解体され、中津商業(後の新制二中)へ移築され、グランドの隅にはセメントの瓦礫がころがっていた。

 その川は理科室の下をくぐり、講堂の横を通って竪清水町、本町、泉町、杉野町と恵那山を源流とする川は中津の町を縦貫していた。水のきれいな土地は美人が多いというが、果たしてそのとおりだったか。「準ミス君の名は」に選ばれた同級生がいるとは聞いたが。桃山町のSさんだった。

 南小学校の理科室は別棟になっていて、入口には大きなカギがかかっていた。
 入るとセメントのたたきになっており、左右にガラス戸棚には正体不明なホルマリン漬けの内蔵などが詰まったビンが数十本ズラッと並んでいた。そこへ入ると、ホルマリンの異臭が漂って、理科室は小学生には気味が悪かった。南小学校の理科室は、小学生には実験台がりっぱだったし、充実した設備が並んでいた。

 というのは、戦時中、ここの理科実験室へ名古屋の大学院の研究施設が疎開してきていたのだ。そこでどんな研究がされていたかは極秘だったのだろう。小学校の先生たちでさえ中身は知らなかったのか、誰も話してくれなかった。

 六年二組は実験室と隣の準備室が掃除当番だった。それで理科担当の三宅先生と親しくなり、掃除が終わったあと、誘われて一緒に解剖をやったことがある。先生は30代か、たしか40前の感じだった。メンバーはいつもの大村(駒場)、横井(横町)、田中(駒場)の諸兄だった。

 最初、大型ヒキ蛙の解剖だったと思う。実験では蛙の足を付け根から切断して電極をつけて、電気を神経に通すと生きているようにピクッと動ごいた。電気に神経を通して筋肉が反応することはわかった。授業でも普通のトノサマ蛙はやったが、これは四時間目で臭いが残って、弁当を食う気にもなれないほどだった。

 数日後、担任のスミ子(旧沢田)先生の家で鼠取りにドブネズミがかかったからと三宅先生の実験室に持ち込まれた。掃除当番が終わり、放課後また六年生の我々が残った。

 ネズミを鼠取りごと池の水につけた。しばらく水の中でまだ動き回って暴れていたが、十分か、十五分で動かなくなった。「大丈夫だ(もう死んだ)」と先生がいうから、水からカゴを上げ、金網を逆様にしてネズミを実験台の上に出した。かなり大型のネズミだった。

 実験台上でネズミの腹を上にして手足をクギ付けして、先生が皮をメスで切り、まず我々に内蔵を見せてくれた。次に睾丸、精巣をみつけて「これはオスだ」と示した。その中から精巣から一部を切り取り、スレートガラスに乗せて顕微鏡で見た。

 先生の目ではよく見えないらしく、順番に生徒に見せた。
「どうだ、(精子が)動いているか?」と生徒聞いた。

 ネズミは死んでも、精子はまだ生きているはずだというわけだ。O君は接眼レンズに目を付けていた。「見える、動いている」と言った。

 今殺したばかりのネズミだから、精子も動いているかもしれないと思うが、私の目にはどうも動いているようでもあるが、単に振動で揺れているようでもあった。

 解剖が終わって、ネズミの死体を先生から捨てるように言われた。我々四人で相談して、雷魚の池の側に穴を掘ってネズミの死骸を入れた。この六年坊主たちは何を考えたのか、その死骸に向けて、O君がまず最初にションベンかけた。続いて私も、Y君もT君も次々とかけた。そして埋めた。先生にはそのセレモニーは内緒で埋葬を終了した。

 不思議なことに、あの時代の少年たちは、何かというと小便を掛けてお終いにするのが普通だった。今時、こんなことをする子供もいないだろう。
 しかし、どういうものか、ワイワイガヤガヤやった後、草むらに向かって立ち小便してすっきりする。こうすると、何か安心する、そんな記憶がある。ヘンな習性があった。
 野蛮だの、マナー違反、軽犯罪と言われて、今道端で立ちションする人間もいなくなった。「昭和も遠くなりにけり」ですかね。

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