我が家の向いの家にいた踊りの師匠がいなくなった後、昭和23年頃Nさん一家が越してきた。
北恵那電車で付知からさらに奥の加子母から来た人だった。市内の人なら大きな藤のカゴを背負って行く行商はしたがらないだろう。しかし、おじさんは、いつも藤カゴ(別称闇カゴ)を背負って歩いていた。田舎から出てきたおじさんは、湯川秀樹似の真面目な人だった。毎日のように中津で仕入れた商品を北恵那電車で奥地の加子母へ運んでいた。
付知の友人も、毎日お父さんが店で売る魚の仕入れに中津の市場に来ていたと言っていた。
その留守を守る奥さんは生まれたばかりの赤ん坊と幼児を抱えて、通りに面した濡れ縁に古本を並べて貸し本屋を始めた。今でいうフリーマーケットのはしりだった。道路に面した部屋の障子を開けて、子どもの本を中心に、人の読んだ本を並べてまるで露店だった。
のちに食料品店になっていくのだが、おじさんも、おばさんも二人とも黙々と働いていた。奥さんにもおじさんにも商才があったのかもしれない。
玄関から土間を通って横清水町の裏につながっていたので、よく「通らして!」といって、返事も聞かないうちに、勝手に通り抜けていた。若いおばさんは「ダメ!」ともいえなかっただろう。ちゃぶ台でご飯を食べている横を通り抜けて行ったこともある。昔の子供は他人のプライバシーにはお構いなしだった。
おばさんから何回か本を借りたあと、これならウチにある「少年」を買ってもらえそうだと思った。毎月ハヤシ新聞店から「少年」を購入していたから、すでに五、六冊はたまっていた。
「本、買ってくれる?」と向かいのおばさんに聞いたら、
「いいよ」と言ってくれた。
読み終えた「少年」を古いほうから4冊持っていった。
売るほうも初めてだったが、おばさんも買取は初めてだったようだ。向えの子だし、高く買えば儲からない。しばらく雑誌を手にとりなかなシブそうな表情で頭をめぐらしている感じだった。
二、三回貸し出して元の取れるなら、一冊5円で4冊で20円もらえたらいいな、と私は期待していたが、おばさんは甘くなかった。
「4冊で8円でいい?」と来た。初めての経験だから、安いけどまあいいか。
躊躇しないで答えた。「うん」
「N食料品店」になってしばらくすると、隣家を小栗さんから買取り、取り壊して木造二階建てを建てた。
近藤家具の奥さんの弟が、大工さんとしてはじめて家を建てるのだとかで、周りが注目していた。そして、上棟式でもち投げがあり、ウチは向えだから、ウチの二階や屋根を越して裏庭にまでモチを投げてもらった。新しい家の一階は食料品店にして、元の家は老夫婦に貸した。
食品を調理して売るため、おばさんは東小学校で行われた調理師講習会に二日間通って調理師免許を取得した。なぜだか、そんなことも近所の人たちは知っていた。
当時は小池魚常が近隣では一番はやる食品店だった。Nさん宅の食料品店は二番手でイマイチの感じだったが、おばさんは低姿勢の人柄でトラブルがなかった。何かとウチの親父にも相談したり、裏あるウチのお稲荷さんに油揚げを上げたりした。これは信仰というより、周りとの和を大切にしているのが見えた。
小池魚常が店仕舞いしてしまったのに、「N食料品店」は、今では三階建てのビルになっている。
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