もう一人の自分に向かって


日記継続「私」育てる役割を果す
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 一人の少年が橋の上から川面をじっと眺めていた。その姿を後から見て、ふと昔日の中津川の流れを思い出した。

 中津川は本州製紙のアク水で汚れていたが、今の市役所の辺りまで行くと清流が流れ、河原の石も砂も汚れてなかった。都会の川の流れでは、音がすることは考えられないが、田舎では川の流れは音がする。大声出してもかき消されるほどせせらぎが響いていた。

 そして、川の中州をカワラセキレイが尾をふりふり石から石へと渡り、草陰には巣を作っていた。
 小波サザナミの音は都会の雑踏と似て、その川音の中にいると何か心が紛れた。特に夏の夕暮れて川原へ行くと、孤独の心を休めるには最高の場所だった。

 凍てつく冬の休日は、本町から自転車に乗り、二中のグラウンド上を通り、中村から八幡神社近くまで行く。

 
 心に欠けているものを満たしたい、誰かに会いたい。何か楽しいことはないか。何か自分に訴えるものは何かないか。自転車で走る続けても期待外れに終わる。心の中の渇き、フラストレーションをいつも抱えていた。

 道は恵那山に向かって上り、帰りはまっすぐ自転車で下りてくる。昭和町から国道を横切り、竪清水町、本町へと一気に坂を駆け抜けて来た。

 途中、N子さんの家の前でベルを鳴らして、私の気持ちを気づいてくれないか、そう思ってもベルはむなしく鳴るだけで、誰も出てこない。いつも私の心は空白だった。


 小六の時、担任が休み、補欠に中西先生が来た時のことだ。
「社会の出来事は社会が残してくれるが、自分の人生記録は誰も残してくれない。自分の人生記録を書き残し、それを読み返すのは老後の楽しみだよ」と教えてくれた。

 先生との接点は人生の上でたったの一時間だったのに、影響は大きかった。先生はまだ三十代の半ばだったから、「老後」と言ったかどうかは確かではない。六年二組は影響されやすいのか、その話を聞いて日記を書きはじめた級友が五十人中十人近くいた。

 日記帳にきょうの出来事を書くのは、お絵描きのようであり、楽しみであった。夜机に向かって「きょうは、何を書こうか」と頭をめぐらし、もう一人の自分に向かって話しかけていた。
 毎日自分の周りに起こる出来事を新鮮に感じ、いつも「きょうはこれを書いてやろう」と自覚して、人や出来事を見る習慣がついた。
 その時から、現実の日常生活をしている自分ともう一人の自分が存在するようになった。

 中学へ上がっても日記は続いていた。
 古い日記帳には、稚拙な文章、へたな文字でコマゴマと書き綴られている。それが私にとって心の癒しになっていた。

 高校一年の年末に、緑町と新町の角にあった丹羽紙店で横書日記帳(博文館)を見つけ、堅牢な装丁が気に入って買った。新しいページを開くと、印刷の匂いが漂っていた。それは何か無限の可能性を秘めている気がした。

 しかし、高校生になると小学生や中学生ほどヒマではなく、勉強の合間に日記一ページを文字で埋めることは、凡才で遅筆の私を苦しめた。そして、書いている論理が幼稚だし、こんなムダなこと、時間の浪費ではないか。意味がないのではと悩んだ。
 それが半年以上続き、曲がりなりにも一ページが短時間に埋められるようになった。この時期はつらかったが、論理的な思考が少しできるようになったと思う。

「日記のメリットは何か」と聞かれたら、何と答えるか。「日記は老後の楽しみだ」と中西先生は言ったが、私は「客観性の育成」と答えたい。

 日記は人生のあらゆることを放り込んだルツボではないかと思う。そして、ルツボをかき混ぜている内に一つの視点ができ、考え方が育つ。生きザマを別の角度から見る視点、客観的に自分を見る目は、書くことによって確実に成長していく。これは確かである。

 日記には、自己の「客観性の育成」させる効果があると感じている。

 それから四十数年過ぎた最近、東京の同窓会で六年生のクラスメートの靖子さんに出会った。彼女もそれ以来日記を書き続けている一人だ。本州製紙の社宅に住んでいた人で、彼女も日記は「自分の心と会話する場所」として最適だった、と語っていた。

 この日記の継続が「私」を育てる役割を果してきたと思っている。その原点は少年時代を過ごした中津川にある。

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