昭和21年春先、お昼過ぎ、宮町から本町へ、小5の兄と連れ立ってやってきた。父に用事があったからだ。
父の下宿している古い旧家「則武」さん宅に来た。その家は成瀬と加藤ポンプ屋の間にあった。ここは部屋数が多く、昔の宿のようなだった。父がここの二階を仮住まいにしていた。会社に近くて便利だからと言い分だったろう。子供にはその理由は聞かせれていなかった。
本町は、舗装のない土の道路で両側には太い柳が植えられて、昼間だったが、人出も少ないから静かだった。
私は兄の腰ぎんちゃくといわれていたが、遊ぶ相手のいない私には、それ以外の選択肢がない環境であった。こういうときは兄も腰ぎんちゃくがいれば、案外心強いはずだ。
「則武」さんの家は、しっかりした造りだが、江戸時代の家のように見えた。ここは薬屋だったのか、階段の下に引出が多く造られていた。言い方を変えると、引き出しの上が階段になっていた。昔、こいう引き出しには薬が入っていたものだ。その階段と引出がうまくマッチした造作は昔の大工サンの腕がしのばれた。
父に会う予定だったが、父はいないようだった。
六年生の兄は、なんと言ったのだろう。
「野沢ですが、父はいますか。」とは、言えなかっただろう。「トウチャンいるかね?」
とでも言ったのだろうか。
しばらく佇んで待っていると、二階から女の人が降りてきた。
女の人は、父が留守だということを伝えた。女の人は父のことを何と言ったか、覚えていないが、この人が父と一緒に暮らしているんだな、とおぼろげながら理解した。女の人はニコニコして、私たち兄弟に干し柿を二個くれた。やさしい人だな…という印象を私の心に残した。
病身の母しか知らない私には、この女の人は動きが速い、と感じた。
ここは時間にして5分もなかったが、これが母に会った最初だった。これから、母との格闘ともいえる長い長い付合いが始まったのだが、そのときは何もわからなかったのは当然ののことだった。
宮町に私たち兄弟がいる間は、会社「恵那精麦」は順調であったから、兄には雑誌「子供の科学」と「朝日クラブ」だったか、もう一冊、本町から届けられていた。
兄はニワトリの世話していたから、その代りの褒美だといっていた。
新しい母を受け入れる気持ちになれない長兄と姉は、父と新しい母を排除しようと大人の手を借りで、談判したりしたが、かなうはずもなかった。
現状を受入れざるをえないで、兄弟を二分して、次男、次女、五男は本町へ父は新しく家を買って引き取った。宮町には、長姉が結婚したのを期に、新婚の家に三男、四男私が残った。大きな子供を預かった姉夫婦は厄介な荷物ではあっただろう。長男は、そのときは医師免許を取って独立できるから、考慮されていなかった。
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