往復ビンタ、懐かしい言葉になったが、昭和20年代、こういう人を制裁する手段が存在した。まだまだ軍隊の残影が人々の脳裏に生々しく残っていた頃の話である。
痛みを知っているアナログの昔は、往復ピンタには効果があった。一度痛みを知らされることで、序列ができるし、同じ過ちをさせない効果があったのではないか、と思っている。
吉田の誠ちゃん、3人兄弟の真中で中3だった。お父さんは本州製紙の工場長で、本州製紙の工場長社宅が本町にあった。社宅といっても、池があり、庭があり、広かった。吉田さん一家は、都会の人の感じがした。
私の長兄が東京で結婚式したとき、東京に転勤していた誠ちゃんのお父さんに仲人を頼んだ。そんなつながりもある。
誠ちゃんは成瀬の聖ちゃんと同級生で、二人は2中の野球部のレギュラーで仲良しだった。
その頃、卓球が流行っていた。
和菓子の「梅信」から来ると、緑町とつながる道路を屋根で覆った卸売市場、八百健がある。その近くに卓球台が4台くらい置いた卓球場があった。
我々子分は誠ちゃん、聖ちゃんと一緒に遊ぶというより、先輩の取り巻きで付いて回った。中3と小5では格段の差があるから、それが当然であった。
その日は二人が卓球をしに行くというので、卓球なんかしたこともないし、やらせてもらえないが、見に行った。
中3の誠ちゃんは卓球ラケットをシェイクハンドで使っていて、ラケットの柄の部分を長くして持ちやすくしていた。ラケットの柄尻が凹にへこんでおり、特徴があった。球のはじき具合も研究し、ラバーの張替えも自分でしていた。
とにかく、小5から見れば、中3といえばなんでも出来た。この頃の4,5歳の差は大きい。自転車のパンク修理も、門松の建て方、山へ行ってゴイサギの捕まえ方も、知っていた。
ラケット持っていた二人が、球の打ち返しか、試合だったのか、ラリーを1時間もやっていたかな。ラケットをどこかに置いて休憩していた。次、再び卓球をしょうとしたら、誠ちゃんのラケットがなくなっていた。探し回っていた。
近くにいた中学生の包みを触ると、ラケットの柄の部分に特徴があった。シェイクハンドのグリップの凹凸部分が誠ちゃんのと同じだった。凹の部分を触れて、少年を呼び、包みを開けさせた。果たして誠ちゃんのラケットだった。
その盗んだ少年を連れ出し、皆で囲んだ。
こういうときは、我々ガキ子分たちは、その他大勢ではあるが、それなりに役立っている。制裁を加えるにしてもギャラリーがいるといないでは、勢いが違う。
連れ出された少年は無言であった。誠ちゃんと聖ちゃんはいった。
「眼鏡をはずせ」
往復ビンタのルールみたいなものだ。少年は、覚悟してか、眼鏡を外した。
パチンパチン、
眼鏡を外した少年の頬から往復ビンタの音がした。誠ちゃんが済むと、聖ちゃんもやった。
それだけやると、「もうするなよ」といって少年を解放した。
今は、いわゆるキレて、前後見境なくリンチする。バーチャル時代は痛みを実感しないから、刺すとか、殺すと一気に飛躍するのではないだろうか。
その当時の往復ビンタは抑えるところは抑えた。理性的に殴っていた気がする。案外、こういう制裁の光景はよくあることだった。 |