昭和二十年の秋だっだろうか。
裏木戸の板塀越しに、背の高い兵隊がわが家(宮町)の様子をうかがっていた。なぜ復員兵がウチに来たのか、それも裏口から入ろうとしているのか、五歳の私は怪しいと思った。
その頃あちこちの家に戦地から父や兄が帰ってきた。
恵比寿神社の神主、馬島さんの前の吉村さん宅でも、戦地からお父さんが帰って来たが、末子マーちゃんは遠くから見ているだけで、近寄ろうとしなかった。
マーちゃんは私より一つ年上の男の子であったが、出征する時にお腹の中では父親のことを知るわけはなかった。そういうことがあちこちの家であった。
姉はその復員兵を家の中へ入れて、懐かしそうに話をしていた。その頃、わが家を切り盛りしていたのは、十九歳の姉だった。
その後も二人の話は長く続いていた。
その兵隊はずっと直立不動の姿勢を保っていた。時々姉は涙ぐんでいるようにも見えた。五歳の私には、それが気になってしかたなかった。
朝来て昼はとうに過ぎていた。話しているのは二時間や三時間ではない。
私は心配だったので、家の外にいて塀の隙間から覗いていた。この兵隊が姉に何か危害を加えやしないか、姉に手でも出したら、棒でも持って飛び出そうやろうと、思っていた。
何べん見に行っても、姉は縁側に座っているのに、その帰還兵は立ったまま話をしていた。まるで上官の前で何か報告でもしているような姿だった。
復員兵は母の姉の子、従兄の正雄さんだった。
出征する前にはわが家に親しく出入りしていて、長兄と同じ歳で姉とも親しかった。従兄は二年間北支へ出征していた。私の三歳から五歳までいなかったから、私の記憶から消えているのも無理からぬことだった。
正雄さんの出征中、姉は戦地に何度か慰問袋や手紙を送ってやったりしていた。女ッ気のない外地で、女性からの慰問袋が届くのは戦地では嬉しいものだったらしい。戦友にずいぶん冷やかされたと後に語っていた。そんなわけで、まあお互いに憎からず思っていたのではないか、と推測している。
従兄弟の正雄さんは、幼くして実母を不幸な形で亡くして、肉親として慕える人はその妹であるウチの母であった。ウチの母も正雄さんを不憫な子と思ってか、彼をよくうちに泊めてやっていた。
長兄と同じ歳でもあり、姉は妹の存在でもあった。正雄さんはわが家の兄弟といってもよかった。
正雄さんは、親をなくした子に対しては、非常に同情して肩入れしてやっていた。このことは、早くに親を失った人の共通するものであるが、これをつよく持っていた。もう一つは、自分の悲しみを誰も理解しないという感情、親なし子の共通のトラウマが、大人になっても体の中に残っていた。
従兄は落合の隣、瀬戸(落合)に実家があったのだが、戦地から帰る途中、中津川に途中下車したのだった。叔母である私の母に会ってから実家に帰るつもりでいた。
ところが、昭和十八年に彼が出征して二年間、わが家も激変していた。
正雄さんはカレーが大好きだった。
わが家ではライスカレーと呼んでいた。
「きょうは洋食だ」
それが出ると大喜びだった。
当時は食べ盛りで、正雄さんはよく食べた。子供六人もいると、一人くらい増えても全体の量は同じようなものかもしれない。勝手知ったる他人の家ではないが、わが家を自分の家のようにして家族同様に食事をしていた、と私は思っていた。
しかし、後年、聞くと、
「もっと食べたかったが他人の家だから遠慮していた。まだひもじかった」そう語っていた。
見えないところで気を使っていたのだ。これは、幸せにすごした人間には理解しにくいところである。
戦地から帰還して、家に直行しても迎える人もいないから、まず中津の叔母の顔を見てと思って、わが家に寄ったわけだ。ところが、出征の時には元気に送ってくれた私の母が亡くなっていた。考えてもいなかっただけに、ショックだったことだろう。
実母のいない従兄には、頼るべき人をまた失ったことになる。それを始めて聞かされて、大きな痛手だっただろう。
19歳の姉も母を失って正雄さんの心情をよく理解できただろう。お互いに共感を持ちえたと思う。
軍隊では正雄さんは歌がうまいと言われて、出征列車が釜山に着くまで、全員が歌えるまで、何回も歌わされたとか。下手な上官は覚えるのが遅くて大変だった。録音機がない時代、歌を繰り返すのは人間しかいない。
他の兵隊が戦地で偵察巡回に行ってるときも、部隊に残って兵を慰めるために、歌を歌っていたとか。
 |
正男さんは、朝の起床ラッパ、夜の就寝ラッパを吹くのが仕事で「オレは、栄養食として毎朝タマゴが一つ付いた」というのが自慢だった。
「新兵さんはツライのねー…、また寝て泣くのよねー…」
ラッパのリズムでやってみせてくれた。
あのラッパ、小学校の2年生の教室の押入れにあったが、誰が吹いても音がでなかった。相当の肺活量がないと音が出るもではない。 |
時々、冗談とも本当ともわからない話をしていた。
北支の寒さは厳しくて、小便が出る先、出る先、凍ってしまうから金槌をもって行って割らないと小便ができないと言っていた。
子供心にまた、また、冗談、ウソ、と思っていたが、そういう話を面白くしてくれた。その中、厳しい戦地の生活は察することはできた。
歌が得意だったから、歌手として身を立てるつもりにだったようだ。
まず、旭座で行われるアマチャ喉自慢コンクールに出て当選して、それを足がかりにすると自信満々だった。
「勘太郎月夜」を我が家で練習していた。
白熱電球をマイクに見立て顔と口を近づけ身振りをつけ熱唱して聞かせていた。
喉自慢コンクールでは惜しくも、当選はできなかったが、東京に出て専属歌手のオーデションに受かった。
ところが、そうそう歌の仕事があるわけない。地方の酒場などまわって日銭を稼いでいた時期もあったらしい。そんなことは、中津の身内には一言も言わなかった。知らなかったが、晩年に聞いた。
同じ世代の歌手では、直立不動の歌手東海林太郎が出世頭のようだ。同じようにこうして酒場を回るのが、歌手の普通の生活だった。
盛り場で酒場回りをしていたその頃は、縄張りに入ったとかでよくもめたらしいく、正雄さんはヤクザと喧嘩も絶えなかった。
軍隊で鍛えた腕はあったので喧嘩には自信があった。しかし、さすが七、八人相手に立ち回りしたときは、殺されるかと思った、と従兄弟で集まったときに話していた。
数年前、正雄さんは七十代のなかば、頑丈な体躯も病魔に勝てず亡くなった。
|