昔は、ご飯の炊き方は難しかった。
今のように電気釜のスイチッチでポンと押せばいいのとは違う。昔の母は、朝は一番早く起きて、炊事場で夜のうちに米を研ぎ、一晩漬けおき、炊く。クドで紙や焚き付けに火を付けて、徐々に細い木を燃して、太い薪に火が移って燃えるように燃やす。
そのためには、前から薪は割って乾燥させておくのも主婦の仕事だった。
「初めチョロチョロ、中パッパッ、オセン泣くとも蓋取るな」と
ご飯の炊く極意を伝えているほど、主婦の技術の一つだった。
その他、洗濯、掃除、雑巾掛け、子育て、主婦の仕事は体力勝負だった。毎日絶え間のない仕事が待ち構えていた。氷の冷蔵庫はあったが、調理した食料は保存するというより冷やすためだった。
何でも手作りが当たり前。針仕事が不得意な女性は「嫁の貰い手がない」と言われていた。冬は炬燵に炭で起こした火を入れなければならない。女は毎日休息のない生活が続き、体調が悪くても、主婦が休んではいられないのが昔の生活だった。
今のように「少子化」なんて夢の夢、子供が一人とか、二人ではない。わが家は七人、よく昔の人は生んだものだと思う。そのくせ、か弱い可憐な宵待草の女がいい、と竹久夢路がつくり出した女性像が戦前昭和の男の願いだった。
母は風邪が長く抜けないからと診察受けた時には、相当呼吸器がやられていたという。手遅れだと言われて安静するよに指示されたが、その安静が主婦にはできない。それに出産が重なり、空襲が激しくなったころ、次兄が名古屋の専門学校へ早朝5時に弁当を持って出かけ始めた。
母は弟を出産して半年、肺に病が移って大喀血して入院となった。戦争の激化と共に、母は日本の運命と共に衰弱して行った。
当時病院には給食施設はないから、病室で自給自足の生活をしなければならなかった。林病院の廊下を隔てた場所に七輪を出して炭火で調理をしていた。母は寝たきりになる前から、年配の付添婦に食事や身の回りの世話を頼んでいた。
その前までは、家で母の食事を作って持って行った。たまご粥の鍋を抱えて、三番目の兄と一緒に林病院へ行った。宮町から恵比寿神社の裏を通り、役場の前あたりから旭座の前を左に曲がって、梅村書店の右から細道を通り林病院へ出た記憶がある。
そして、母は乳飲み子を残して昭和二十年三月に死んだ。
母の死後、父は別の家に行って暮らしていた。国道の家では子供ばかりが暮らしていた。父は十九歳の姉に生活費を渡して、小さな弟の世話や食事の支度は任せていた。男親に何ができるというわけではないだろうが、父は別の家に入り浸りで帰って来なかった。仕事も忙しいだろうが、父は責任放棄していた観があった。
大変な時であったが、母はいなくとも子ども達はなんとか元気にやっていた。これは近所の人がそれを父に伝えて、父は気にしていたが、何もできない状態であった。
なにしろ父は病弱だったお坊ちゃん育ちで、苦境、逆境に対処する知恵もないかった。きっと、こういうときには、新しい女性が心の支えだっただろうと推察する。
だから、長兄が落合の伯父さん(母の義兄)を動員して説得しようとした。別れさせようと二人を前にして「別れろ」と説得しても、二人は「はい、別れます」と言って、外に出ればまた元の木阿弥だった、とか。子供の私にはこんな会議をやったも知らされもしなかった。
寒中に十九歳の姉は弟のオシメを西宮神社の裏の川へ洗いについて行った。弟は四月生まれ、その秋には母が入院、冬からは姉が世話することになった。弟はまだウンコ垂れ流しだった。その年一月二月、弟はまだまだオシメをしていて洗濯物はヤマほどあった。今の紙おむつがあれば、ずいぶん違っただろう。
昭和町にいた祖母のもとには、戦時中の混乱で名古屋から疎開しいた父の末の妹家族で手一杯。他にも朝鮮からの引揚げ、母親が病気で実家で静養など、二家族、三家族が来ていた。ウチの孫の面倒を見る気持ちの余裕がない状態だったのか、助けてくれなかった。
何も娯楽のない時代だったので、食後には、子供同志で歌を順に歌っていた。
「南から 南から 飛んできたきた 渡り鳥……」
女性歌手が南小の講堂でコンサートを開いたのを見に行った記憶がある。
父は政府の推奨する戦時国債を買って、いや、買わされたのかもしれない。ときどき数えているのを見たことがある。国債証券はB5サイズの上質厚紙で鳳凰の縁取りがあり、大きなお札の感じだった。
戦争に負けた時には、それがすっかり価値がない状態。償還する時にはまるで紙屑、紙で持っていた方がよかったのではないか。政府のやることには信用が置けないと思うのは、この戦時国債の一事をとっても、はっきりしている。
|