都会の味「キリン亭」

昭和21年の情景親代わりの長兄

 
 母が前年亡くなって、私の小学校の入学式には、林病院で見習い医師をしていた長兄が付添ってくれた。15も年が離れていると、兄はまるで親のような存在であった。恵那中から師範学校を出て、その年から南小学校で先生になった兄の友人がいたから、親代わりにはちょうど良かった。昔PTAは父兄会といっていたし、意識として兄は父の代わりだった。
 
 兄は東京で学生生活をしているから、親と違って進歩的だった。その進歩的が私には恥ずかしいものだった。
 
 入学式の一週間前、私を竪清水町と桜町の角にあったハヤシ理髪店に連れて行かれた。そこは、2脚の椅子があって落ち着いた平屋ふうの床屋さんだった。その日は、待ち客もいなかったから兄が中にきて、床屋さんに都会の坊ちゃんスタイル、刈上げを頼んだ。弟である私の気持ちをまったく無視していた。

 昭和21年当時、男の子はたいてい丸刈り、丸坊主である。軍国主義の名残りのある中津で、その頭を都会風なお坊ちゃん刈りにした子はどこを探してもいない時代だった。他と違う個性的なスタイルは、田舎では特に恥ずかしい。

 自分の頭は見えないから我慢ができるが、目の前に鏡があったら落ち込んだだろう。南小学校で6年間通して長髪の子は一年下から一人、二人出た。その中の藤原君は、進歩的な家柄の子だったようだ。

 入学の日、学校に着くと、兄貴は同級生で新任教師になった友達のところへ話をしに行ってしまい、弟のことは多分忘れていたのだろう。兄は親ではないから、そのへんが本当の親とは違った。

 私は知っている人は一人もいないから不安だった。どうしていいかわからず、ぼやっとしていると、新入生は列を作ってどこかへ行ってしまい、教室はカラになってしまった。誰もいなくなってから慌てた。
 うろうろして、職員室の前あたりに来たとき、上級生の女の子が「どうしたの?」声を掛けてくれた。女の子に連れられてついて講堂に行くと、校長が話を始めたところだった。幼稚園に行っていなかった私は、集団で行動することに全く慣れていなかった。

 自分にとって今でも心に残る出来事であったが、家に帰っても家の中に、語るべき相手は、誰もいなかった。寂しさは受け留める相手がいれば解消できるが、私の心にはさびしさはたまっていった。

 兄弟全員は「旭座」裏の町立「幼稚園」に行った。兄弟7人中私だけは幼稚園に行っていない。この時期、母の病気で入院しており重態だったから、私の幼稚園のことなど我が家で考える余裕がなかった。しわ寄せが私の教育に出たのだろう。

 幼稚園といえば、中津町立幼稚にひとつしかなかったから、高校生になって幼稚園で一緒だった頃の話を聞くと、羨ましさを感じた。幼稚園に行ってないから、私は多くの子どもと行動が共にすることになれていなかった。入学式で皆とはぐれたのは、ここに原因があるのだろう。

 担任は、女の先生だった。
 「カトウ スミヨ」と
 先生は黒板の前に立つとチョークで
声を出しながら大きく書いた。
 その頃はひらがなよりカタカナを先に教わった。教会のRさんは「(ひらがなより)カタカナの方が早く書ける」と高校生になっても言っていた。カタカナは直線が多い文字だからだろう。

 最初の授業は、カバンから教科書や筆入れを出し、しまうことだった。また、カバンに仕舞ったあと紐を蝶々結びでしばることだった。

 カバンは陸軍の背嚢と同じ布で同じ作りになっていた。色もカーキ色だった。東校のカバンと南校のとでは微妙に違っていた。私は東校の物を貰っていたから、南校のカバンのほうが丈夫な布を使っていると思って、羨ましかった。しばる紐が東校のカバンは1年もすると弱くなって切れたが南校の紐は6年まで健在だったようだ。そんな細かい比較を覚えている人はいないだろう。
 このカバンを6年まで使う人が多かった、このカバンは布製だから、弁当のおかずから垂れる汁のシミがついたり、洗濯がきかないから、そのまま使っていた。

 二部授業だったから、1年生は正午には帰った。二宮金次郎の像を見ながら、もう帰るのか、と思った。家に帰ってもすることがないから、帰る足も重かった。給食も出ないからおなかも空いている。一年生だからと甘くもなかった。

 宿題の習字をしている時のことである。
 あまりに下手な文字にあきれたのだろう。長兄が後ろから手を持って書かせてくれた。書かそうとする動きに逆らって私が書くから、兄はだんだんじれてきた。逆らう意思はなかったが、小学校1年生は大人のように文字が書けるはずない。それが教えているように書かない、反抗していると兄には思ったのだろう。
 声を荒げて怒鳴られて、弟の私は泣くしかない。しばらくして、兄は家から出て行った。我が家では親不在家庭だから、兄が家長みたいなものだ。

 夕方までメソメソしていると、姉が慰めてくれて駅前通、緑町に連れて行ってくれた。戦前から続いているキリン亭、淀川の橋を渡って店の中に入った。そこはビールも飲めるから、カフェと言ってもいいかな。

「お兄さんたちばっかり、ずるいよね」
 東京に出た兄は、中津で自分の呼称を「お兄さん」と呼ばせていた。「ニイちゃん」というのが、田舎くさいと思われたくなかったのだろう。

  そこに兄が友達といた。そこへ押しかけていくと、入れ違いで出てしまったが、代わりに私たちが入った。

 夏の夕方、ステンドグラスの窓で中が明かるかった。シャンデリアがぶる下がっているように思えた。戦後の物のない時代、中津で唯一の華やいだ、都会的な店だった。

 しばらすると、しゃれた細いコップの中で緑色のサイダー中であわが次々と上にあがっていく飲み物が出された。匂いもほのかにして幻想的だ。それを眺めていると、さっき泣いていたことを忘れた。キリン亭で中津の中の都会を味わった。

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