学校(南小)から帰ってきて、午後四時頃かな、紙芝居のオジさんが周辺の子供を集めるために、倉前町から本町へチンドン屋ふうの太鼓を叩いて回って来た。
ドントンドドドン ドントンドドドン
その太鼓の響きを聞くと、昭和二十年代の子供たちは鳴り物の魔力に他愛なく引かれて集まって来た。私も二円五十銭を貰って走り出した。
倉前町から桃園町へいく手前の左側、倉庫の前がくぼみになって子供なら丁度十五人から二十人は集まれる所があった。そこにスタンド止めのでっかい紙芝居の自転車が止めてあった。
あの倉庫には祭りの提灯や太鼓、山車が仕舞ってあった。
当時は家庭にテレビがあるわけではないし、塾へ行く子もいないから、学校から帰って来れば子供たちはヒマだった。その時間帯に紙芝居のオジさんが回って来た。子供はお金を持って集まってきた。
紙芝居の最低料金は一円の薄いセンベイ一枚。これだけを買うのは、貧乏臭くてちょっと恥ずかしかった。次のランクは茶色の練りアメ(二円五十銭)、上客は五円の透明な練りアメを買った。おじさんは紙芝居台の引出しから二本棒につけて子供に手渡した。五円使えるのは両親健在の一人っ子、甘やかされた坊やだった。使うお金の額で子供の環境が理解できた。
当然ただでは紙芝居は見せてくれないが、時にはなんとかズルして見ようと何気なく紛れている子がいた。その子には事情はあっただろうが、
「買わないと見せられない」
オジさんはと中1くらいの女の子を帰した。もっと小さな子には、「今度からはお母さんにお金もらってきてね」と注意したが、帰すわけにもいかず見せていた。
「猫娘ネコムスメ」
見た紙芝居の中で、今でも思い出せる。よく覚えている。
いつもは優しい娘が、生魚をくわえると途端にネコ娘になって本性を現す。耳が伸び、髪の毛は逆立つ。目がランランと輝き、爪が鋭くなる。
佳境に入ると、太鼓が小さな音から急に早く大きくなり、ドドドド、ドン ドドドド、ドン
声色をつかって舞台の雰囲気を盛り上げていた。おじさんの妖怪猫はこわかった。
子供は食い入るように見ていた。異様な雰囲気の絵、このオジさんの名演技、話術に酔いしれて子供たちは聞き入っていた。その演技や口調は学校の先生よりずっと引きつける力があった。
何せこの子供の人気が生活に直接関わっていたから、オジさんは真剣だった。下手にやるわけにはいかない。その「猫娘シリーズ」は案外長く、一年位続いたと思う。
紙芝居は当時の映画を意識して大体3本立てだった。3本で三十分から四十分で終わった。一本目は幼児向きの作品、次に活劇もの。メイン3本目に大きい子も喜ぶはやり物を見せて興味をつないだ。
ストーリー展開には、オジさんは気を使った。間を持たせて、次の絵を半分見せ......次に期待させ、ドンドン、パッと場面展開をした。そして、明日も見たいと思わせ、太鼓をドンドンと叩いて終わった。今のテレビの手法とそっくり同じだ。
買った練り飴を二本の棒で紙芝居の終わるまで練りつづけて、水飴の中に空気が混ざって真っ白になると、もう一つ何かサービスがあると聞いたが、私は大抵見ている間になめてなくなっていた。中学2年生になるとさすが見に行かなかった。
紙芝居が終わると子供は帰って行く。
オジさんは子供が散らかした跡を箒ではき、ゴミを片付けていた。倉前町が終わると、おじさんは重そうな紙芝居自転車のスタンドを外し、そろそろと消えて行った。
次はどこだろうか、手賀野へ行くらしい、そう思っていたが確かなことは分からなかった。
ある日、紙芝居のオジさんを意外なところで見た。
大抵の新築の家を建てる時には、神主を頼んで地鎮祭をやってもらう。本町に住んでいた木材業の松村さんが竪清水タテシミズ町に家を建てた時、私はたまたま通り掛かって、神主さんを見てびっくりした。地鎮祭をやっている神主さんが、紙芝居のオジさんだったのだ。紙芝居のオジさんが祝詞ノリトを挙げていた。
オジさんが、神主の着物を着て烏帽子エボシをかぶり、神様に幣ヌサを振って安全祈願をしている姿には、いつもは紙芝居をやっていた姿とはギャップがかなりあるように思えた。副業がないと紙芝居だけではやっていけないのか。なんとなく大人の生活をかいま見た気持ちになった。
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