ムツの佃煮だけは、二度と食いたくないと思った。
昼ごはんのおかずにムツ、を朝から20歳の姉は煮ていた。ムツというのは、蚕の繭玉の中にいるさなぎだ。栄養はあると思うが、あれは鯉の餌にするものだ。
食べる物のない時代、姉は近所のおばさんたちから聞いたのだろうか、ムツをもらってきた。そのころは、新米オトナの姉は、幼い弟から見て心配だった。何もできない代用母だった。
皿に盛ったムツの煮付けがご飯のおかずに出た。
口の中噛むとムツの形が崩れたあと、さなぎの中身が広がった。ふつうに物を食った感覚とは違っていた。味付けもうまくなかったのかも知れない。姉も二度と作らなかったのは、うまくなかったと気づいたのだろう。
そのころは毎日、雑炊を食っていた。
ご飯に大根を入れて量を増やすのは普通のこと。少ないご飯をいかに多くするか、これが主婦のつとめだった。
小学1年生のとき、子供茶碗に10杯雑炊を食べた記憶がある。あのころの子供は、みんな飢えていた。まさに餓鬼だった。
小学校5年の兄は近所の人と一緒に前山、恵那山の方にビョウブの葉を取りに朝から行った。夕方帰ってくると背負いの竹篭にビョウブの葉がいっぱい。このはっぱはご飯と一緒に炊いてしまうと、あまり抵抗なかった。
東京の学校に行っている長兄がたまに帰ってきて、「銀座の露天で売っている雑炊は箸が立たない、箸が立つ雑炊はいい方だ」と東京情報とでもいう話を弟たちに語っていた。中津の雑炊はまだマシだというわけだ。
隣の福岡さん宅では柴犬フクを飼っていた。
中国や韓国では犬は食糧ではあるが、日本でも赤の犬はおいしいと言う人はいたが、「犬を食う」のは抵抗がある。しかし、戦争で肉が少なくなった昭和19年、そんなことは言っていられなかった。
隣りの家でフクを殺したとかで、肉のおすそ分けをしてもらったことがある。
玄関に隣りの奥さんが入ってきて、姉が対応していた。
「いちばん美味しい肝臓を持ってきた」といった。
犬がかわいそうとか、そんな感情はなかった。おかずが一品増えたという感覚だ。ごく自然に会話していた。
隣りのよしみで、鍋の中に赤紫の肉塊がドサッとはいていた。
うちでも鶏はさばくから、5歳の子供でも見ただけでキモ(肝臓)だな、と思った。
夕飯の料理にそれが出たが、すき焼きふうな味付けで結構うまかったことを覚えている。
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