百日ゼキに「魔王」が来る
夜中、四つ目川沿って暗い夜空を見ながら

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 秋口だったと思う。夜中百日セキの発作を起こした。
 苦しんでいると私を負ぶって、父は四つ目川の土手沿いに太田町の小木曽医院、小児科に行った。子供の寝間着は和装の着物でその上にねんねこを着ていた。

 
コンコンコン、と続くと、今度はのどが鳴る。ヒュー、息を吸う音が長く引く。コンコンコン、ヒューコンコンコン、ヒューコンコンコン、ヒューコンコンコン、ヒュー・・・・何回も苦しいセキが続く。
 
子どもの体を玩具のように苛め抜く。神にいたずらされているように思えた。
 

 三種混合のワクチンを飲んで、今は罹患しない病気も、昔子どもは罹らなければならなかった。百日セキ、はしかなど、これらの病気に罹って治った子だけがその後、オトナになっていかれる。一般にそう思われいた。
 体の中に人生の旅行手形がもらえるようなものであった。人生は体を使って山を乗り越え、歩く旅そのものだった。その又昔だら、天然痘でできたアバタも手形の一つだ。

小木曽医院は営業していないようだが、まったく昔と同じたたずまいだった。平成16年5月

 小木曽医院の玄関は少し引っ込んでおり、その扉を開けると、ぷーんと消毒液の匂いがした。病院独特の雰囲気をかもし出していた。
 意識がもうろうとしていても、消毒液(クレゾール)の匂いはすぐわかった。体を押さえられ、お尻を出し注射を打たれる。恥ずかしさと痛さを知っていたから、泣き叫んでいた。

 先生は女医さんだった。
 息子、啓太郎君は高校で同じクラスになったが、大柄の温厚な少年であった。母親も温厚な人だったとは思うが記憶にない。

 夜中に発作が始まると、百日咳はおさまらなかった。
 病院に連れて行くしかない。子どもが5人、6人もあっては、母が1人の子だけを連れて行けないから、父が連れていった。仕事終わってから帰ってきて子どもの世話は、父には大変だっただろう。

 百日セキの苦しさは未だに覚えている。
 百日咳は、激しいセキだった。死と隣り合わせで苦しんだ。体力のない幼児が激しいセキで病魔と戦うのであるから、弱い子は体力消耗して死ぬ。

 女の子が100人生まれると、男の子は104人生まれる。成人すると同数になると言われていた。男子の方が死亡率が高かった。
 男の子だけでない、もちろん女の子も死んでいる。我が家では、ジョウという父の妹は大正時代、幼いうちに亡くなっている。父も百日ゼキで死にかかった口である。

  コンコンコン、ヒューコンコンコン、ヒュー・・・
 
発作が起こると、小木曽医院で貰った水薬を飲んだ。水薬はガラス瓶に入っていた。手芸店の小ビンようなガラスで出来ていて、コルクの栓であった。今もプラスチックになってはいるが、メモリが外側に刻んであり、同じようである。
 セキが始まると、自分でメモリを見て飲んだ。甘いからつい呑みすぎるのだった。薬飲んだと思うだけで心安らかになった。

 夜中、父の背に負われて四つ目川沿って病院に連れて行かれた。
 暗い夜空を見て、喉のゼイゼイしがら夜道を行くのは、闇の中からの病魔がささやき、誘いを追い払いながら、生にしがみついているような感覚だ。
 まるでシューベルトの「魔王」の音楽をきいているようなものだった。それは中学生になってから、思ったことである。

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