南小学校で習った頃のことを思い出す。
なかでも、平八先生は授業中も竹刀のような棒をいつも持ち歩き、生徒にはこわい先生だった。5年生の担任新田平八先生は、まだ、未婚の30歳前のようだった。
感情に任せて殴りつけるのは論外だが、当時悪いことをすれば、体罰を受けるの当たり前のことだった。
二人のオデコを合わせて、間に先生のゲンコツを入れ、力の入ったところで抜くと、ゴツン頭がぶつかる。また、雑巾バケツに水入れて廊下に立たされることもあった。
いつから「体罰がいけない」なんていわれるようになったのだろう。罰すべき行為には罰すべきであって、感情に任せて怒るのとは区別すれば、教育上必要なことではないか。犬だって、叱るとほめることを使い分けてしつける。
子供の数が減るとしつけ方を知らない親が多くなるようだ。まして、核家族が増えると、年長者から知恵を吸収するチャンスがないから、知恵の浅い大人が増える。
昭和二十六年正月二日早朝、あの頃中津の冬は今より寒かった気がする。
五年生四人(駒場の田中亮治、大村和行、横町の横井正毅と本町の私)で手賀野の先生宅へ押しかけた。この計画は、O君が宿直中の先生とこへ行き話をつけてきたのだった。その点、彼はよく叱られたが、先生になついていたし、ハシッコかった。
四人が先生の家に着いたのは、九時にもなっていなかった。
「お前ら、そんなに早くから来るな」
眠そうな顔で先生は出て来て、怒ったように言ったが、そう機嫌が悪いわけではないことはわかっていた。新調の紺がすりの着物を着て子供達を迎えてくれた。
子供たちを歓迎してくれたのだろう。将棋盤を持ち出して、
「オレに将棋で勝ったら、映画を奢ったる」
小5のガキに負けるはずがない、と余裕しゃくしゃくで先生はO君と将棋を始めた。
先生宅へ遊びに行ったからといっても、他の三人は将棋の行方を見ていただけで退屈だった。先生のお母さんは六十代だったろうか、餅を焼いて醤油つけて持って来てくれた。それが唯一のごちそうだった。
先生の授業で思い出すのは、「速さ」(算数)の勉強のときだった。
三、四時限をつぶして中央線の列車の速さを計りに行った。今もそうかもしれないが、中津あたりの中央線は単線だった。
速さを計測するには、坂本よりの津島神社の裏の線路わきに行かなければならない。南小学校から津島神社近くまで片道三十分、往復1時間、今だったらバスで行くだろうが、5年2組五十名は歩いた。
列車が来る前に、先生はまず線路の長さを生徒に計らせた。
1本のレールは25メートル、4本で100メートルだった。名古屋発松本行き特急列車が目の前を通る。ストップウオッチを先生が押す。列車が走り、百メートル先の生徒は列車が通ると手を振る。ストップウオッチを止める。
ストップウオッチで時間を計るのは、平八先生だった。
それで百メートルを何秒で走ったか、その結果、特急は時速何キロメートル、貨物列車は時速何キロメートルと出した。
習ったことは忘れても、この時の授業は強く記憶に残っている。
O君相手に将棋を指していた平八先生の表情が、段々真剣になっていた。時々「ちょっと待て」とO君の手を止めさせていた。
最近では、授業中に教師が余談を話すと
「先生、授業を進めてください」と生徒に言われるらしいが、平八先生は余談をよくやった。その中の一つを紹介する。
「フランスの神学大学の入学試験で
『橋の上から飛び込んで自殺しようとする人がいる。この人をどうやって止めるか』
これが問題だ。ただ『止めてください』じゃダメだぞ。誰か、わかる者はいるか」と生徒に聞く。
五年生の頭に生存の根本を問う問題を出しても答えられるはずがない。先生が何と回答したか記憶はないが、生徒を伸ばしてやろうとする真剣さだけは感じられた。
もう一つ、
地球は自転しているから、気球で上昇して一日空中にいれば地球一周できるか。
もう一つ、
ダムの水で電力を起こして、そのエネルギーで水を戻して、また電力を起こせば幾らでも電気は起こせるか。
大人なら当然わかる知識だが、地球の引力や、エネルギー保存の法則などを教えてくれた。
先生はO君に負けても、
「もう一丁」と二度目、O君相手に将棋を本気で指していた。しかし、続けて負けてしまった。O君は意気揚々と先生から映画代をせしめた。といっても、一人分だけだった。我々他の者は自前で見ろということである。
先生宅(手賀野)から町まで歩いて行き、旭座にかかっていた西部劇「アラモの砦」を見に出掛けた。二階へあがり、座敷のような席で見た。正月のせいか、ギュウギュウ詰め状態で気分が悪くなるほどだった。娯楽といえば、映画。昭和25,6年は映画全盛の時代だった。
それから半年もしないうちに、平八先生は音楽担当の小川先生(※)と結婚した。
昭和二十六年正月は、ちょうど恋愛中だったわけだ。正月に着ていた紺がすりの着物も小川先生の手縫いだったのかな、と想像している。
だからか、その頃はフランスの「ポールとビルジニー」という少年少女向きの恋愛小説を時々読んでくれた。クラスで一人陽子ちゃんがこの本を買って所持していた。私がそんなことにあまり興味もてなかったころ、早熟少女は目覚めていたのかな、と思う。
最近「教育とは、習ったことを全て忘れたのちに残るもの」という言葉と共に、故郷を思い浮かべる。
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※東小学校近く住んでいた小川先生のお父さんは配属将校であった。
昭和20年、敗戦近いころ召集された。出征する時、近所の人々に「家族をよろしく」と万感の思いを込めて挨拶をされた。自分の戦死を覚悟されているとみんなは悟って涙で送ったという。事実そのとおり戦死された。 (間誠三さんからお聞きしました) |
| 新田平八先生、昭和四年生まれ、昨年平成17年暮に亡くなったらしい。 |