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昭和の終焉と共に、毀誉褒貶の多い母『照子』との四十余年間の絆は切れたのです。
生みの母ではありませんでしたが、昭和21年から43年間、私の母であったのです。平成元年一月二十三日、母は私に大きな影響を私に残し、八十二年間の人生に終止符を打ちました。
それが、私の『昭和』との訣別でもあるのです。
私が中津川駅を降りたの時は、真夜中、既に十二時を過ぎていました。駅前の繁華街でさえもう店仕舞いして、街灯も薄暗くなっていました。その中を本町の通りまで七、八分程歩くと、少年の頃過ごした家の前に着くのです。
『忌中 野沢家』
あたりは暗いのに、提灯だけが明々と点いていました。
もう、既に通夜も終わって人びとは帰って、一段落したところでした。戸を開けると、身内の男衆が六七人炬燵を囲んで、酒を汲み交わしていい気分で出来上がっている様子です。
『ああ、常ちゃん、待ってたニィ』
『いつ出て来たノォ。遅かったニ』
一週間前に入院させたと聞いたばかりだったのです。追っ掛けるように、昨夜『母が危篤だ』と姉世津子から電話を受け、そして、きょうの日曜日なのです。帰省準備している間に、『祖母死す』と姉の長男から知らせて来たのです。あまりにも目まぐるしい変転でした。
生みの母『勝世』は、私には縁の薄い母でした。昭和二十年に病死し、私が小学校に入るときには既にいなかったのです。私にとって、わずか6年間の母でした。
『勝世』は、長野県の木曽出身で純朴で善良が取り柄、駆け引きなどまるで考えない人でした。兄や姉たちはそう言い懐かしがりますが、私は残念ながら姿形は覚えていますが、母『勝世』の人となりが浮かんで来ないのです。
思い出や懐かしさが湧いて来ないと言うと、『勝世』を母として育った兄や姉には非難の目で見られ、罪人として扱かわれ兼ねないのです。
母は『勝世』しか考えられない子供達の中に、新しい母『照子』が出現したのです。その出現の仕方からして子供の私達にはショックなことでした。
『照子』は、名古屋から戦災を避けて疎開してきて、我が家の家業精麦会社の従業員として、昭和十九年頃から働いていました。母『勝世』の病が重くなって行く時、父は母『照子』と切れない仲になっていたのです。
そのことは秘密にしておける筈もなく、長男有臣や長女敦子、親戚から非難轟々だったのです。『勝世』の容体は日増しに悪くなり、助かる見込みが無くなっていました。父は病妻の心配をしていない訳ではないのですが、『照子』と『勝世』の間にあって、どうしようもない気持ちだったでしょう。
縋る気持ちで、父錠一はしっかり者の『照子』との関係が深まって行ったのです。しかし、病妻を放っておいて、乳くりあって…と集中砲火を浴びていたのです。
『母親』を求める子供、『妻・女』を求める父、親子では立場が違うのです。我が家はここからボタンのかけちがいが始まったのです。
子供が五人も、七人もいる中年男のところへ、子供が大嫌いの『照子』が喜んで来るはずもないから、(子供の面倒は見なくていい…)という約束を父がしていたのです。父も必死だったのでしょう。
『おんしンとこのお袋、おもしろいなァ』
高校生の時、友人に言われて意外な感じを持った記憶があります。母は男の気をひく天性を持っているのでしょう。身内の、ましてや母がそう思われるのは、あまりいい感じでないのです。外ヅラのいい反面、それはそれは家の中では厳しい母親だったのです。
『照子』は、朝がまるで弱くて、起きてくれないのです。朝御飯や洗濯の世話をしてくれない母親なんて、あるでしょうか。
六年生か中一の姉が御飯を炊き、兄弟の弁当を作るのです。遅くなって、私はご飯を食べないで学校へ行くこともままありました。姉が炊事している間に、私と弟は拭き掃除が仕事となっていました。
『子供の世話はしない』と言う約束だと、公言して憚らない『照子』は、一切子供の世話を本当にしないのでした。
私は小学生の時から、ずっと自分の衣類は自分で洗濯していました。
洗濯機のない時代、一番辛いのは真冬。
日曜日は朝から、たまった洗濯物を孤独に洗っていました。たらいをポンプ井戸の前に置いて、ズボンや下着、上着まで洗わなければなりません。手を真っ赤にしてごしごし擦っても擦っても、洗濯 物は減らない。二時間も三時間も井戸水の中で洗っていました。
子供が泣きたい気持ちで必死に洗濯していても、『照子』は痛みは少しも感じていないのでしょうか。
『石鹸が減る』とか
『流しが水浸しになる』と、感情をあらわに怒るのです。
『照子』は食べ物には贅沢をしていました。
普段、私たち子供は母と一緒に食事をしたことがなかったのです。
例え、子供に不味い物を食べさせても、父と二人だけは別のお膳を囲み、贅沢な物を食べるのです。ジュウジュウと肉を焼き、匂いが夫婦の部屋からして来るのです。匂いを嗅ぎながら、私達子供はひもじい思いを我慢していました。
毎日毎日こういうことが続くと、子供の怒りも諦めが先立ち、その仕打ちに慣らされていくのです。
大人なら感情的な怒りが表れても一過性ですが、子供にはその影響が内在化して、それが性格形成になって行くのです。後の人生にも大きく響いていることをしみじみ感じます。トラウマとなっています。
『野沢の子は、挨拶も出来ない』
『ここの子は、ちっともなつきャァせん』…
次から次と、罵詈雑言を浴びせられていました。少し残酷な言葉ではないですか。なつきたい気持ちは一杯なのに、いつもオドオドしていることに気づかないのでしょうか。
そのような仕打ちをされて、子供は天真爛漫になれるでしょうか。
挙げ句の果ては、自分の思うようにならないと、
『ここは、私の家だ。早く子供は家を出ていけ!』
私達に向かって言うのでした。「故郷は帰る所には、あるまじ…」と、思うのは、この言葉ゆえなのです。
現在の家屋敷を買う資金は父が捻出して、登記上の名前を『照子』にして母の歓心を買ったのです。父はそのことで子供達の面倒を見てもらえると思ったのでしょうが、しかし父の思うようには、母『照子』は動いてはくれなかったのです。
夜中十二時を過ぎて、明かりを点けて勉強していると
『もったいない。早く消せ!』と、大声で怒鳴るのです。
勉強であろうと、読書であろうと理由にはお構いなしで、怒るのです。
ムシの居所が悪いのか、そして本当にヒューズを抜いてしまい、真っ暗にしてしまうのです。そんなこと、いくら貧しくたって,本当の親子だったら、やらないでしょう。こんなこと、友達に言えることではない。
真っ暗な部屋の机で、この母の仕打ちを忘れないぞ、と心に決めて時の過ぎるのを待っていました。
『照子』には感情の波があったでしょうし、経済的理由もあったかもしれません。しかし、高校生の私は一番勉強しなければならない時だっただけに、『親』ではない『鬼』だと言う気持ちでした。母の寝静まった頃、階段をソーッと下りてヒューズを入れましたが、これでかなり人生に対して意気阻喪するものです。
『照子』の行為は、あまりにも冷酷でした。
今冷静に省みると、それなりの理由があったのです。
先ず性格と育ちでしょう。『照子』も後妻に育てられ、多感な年頃にその母に裏切られた経験が根強く影響しているのです。
これは、晩年になって聞いて初めて知ったのです。
第二に、十三歳の時から仕込まれた、半玉から芸者になるための稽古や躾けと同じことを、私たち子供に強制していたのです。だから、朝起きて子供に御飯をつくってやらなくても、洗濯してやらなくてもなくても、それは修行、子供を鍛えると考えたのかもしれません。そこから這い上がって来る子が、本物になれると信じていたのでしょう。
母親の存在は、少年にとって心に占める比重では、世界と同じ大きさです。少年は、母を選ぶことが出来ません。そして、母のつくり出す世界の中でしか、生きられないのです。
私は内気で甘ったれで、人前で話もできなかった少年でした
性格の形成される時期、家庭の冷たさは少年にとってこたえるものです。人生多感の時期に、安心感が与えられない生活を強いられると、自分を守るにはどうしたらいいか、母がどうすれば喜ぶか、どうすれば叱られないか…など、色々と考えるものです。
「一億の母あれど、我が母にまされる母なし」
と自分の母を誇りにする人もいます。毎日、母親の顔色をうかがって過ごす少年もいるのです。
義理の親子関係では、叱られることは闇に突き落とされる恐怖があるのです。実母しか知らない方には理解していただけないでしょうが、破綻の修復が再び出来るものか、いつも心配なのです。精神が未発達の子供への影響は、特に大きいのです。
それゆえ、「生みの母だったら…」と、成長過程の節目、節目に嘆き、こだわりを感じていたのです。
昭和21年、母『照子』との出会いから平成元年の今日まで、私の『昭和』は母の専制との葛藤の歴史でした。そのこだわりの気持ちは、つい昨日までありました。
少年時代に『次郎物語』を地でいく経験をして来て、人を教育する立場に立ってみると、このバックグランドは決して無駄ではありません。少年の悲しみや心の痛みも、決してマイナスばかりではありません。
そんな経験があればこそ、人の心の襞ヒダが人よりよく見えるのです。そして、人生を深く知ったとも言えるのです。
マイナスの経験も、長い人生において生きてくるのです。
今、心に悲しみや痛みを味わっている少年少女がいたら、そう伝えたいのです。自暴自棄にならないで、歳月を待ってください。
『照子』の個性そのものは、今思えば、彼女自身の『生い立ちの証明』であり、きっと精一杯の『生き方の表現』だったのでしょう。母『照子』は、そうしてしか生きられなかったのです。そう思うと、いとおしいです。
母の思い出が、次から次へ走馬燈のように、心に甦って来ます。
少年時代の強烈な悲しみや心の痛みが、彼方へ行ってしまうのです。それが、いつの間にか温かい思い出になっています。
晩年には、私が帰って行くと、とても喜んでいました。
きっと母は、母なりに私をかわいと思っていたのでしょう。私の子供が騒ぐと『うるさい!』と子供に怒ったりしていました。すると、かえって子供から邪険にされたりしていました。
「昔はあんな程度じゃ済まなかった」と言っても、私の子供には昔日の苦悩がもう理解されるわけもありません。
『次郎物語』の中で、
『子供って、可愛がりさえすれば、いいのね』と母親が死に際して言う言葉が未だに心に残っています。
人は、『愛されたい。愛していたい』の連続ではないでしょうか。そのことは、母『照子』にも、私にも言えるのではないかと思うのです。
『祭壇は、向こうやニィ、お参りしてやって』
従兄弟の声に促され祭壇の前に立ったのです。
灯明の煌々と燈トモった祭壇には、母『照子』の元気な頃の遺影が飾られています。その側の布団に、額に三角巾をつけた母が寝ています。額や頬の皺も、表情も、何時もと変わりません。 母の額にさわると、私の手に体温のないことが冷たく伝わって来ます。
母の『死』は、厳然たる事実でした。
私の葛藤の歴史『昭和』が終わったのも確かな事実です。
『母よ、ここまで育ててくれて、ありがとう。』
素直な気持ちで、そう言えたのです。私は、この言葉を新しい出発点としたいのです。
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