ゆっくり歩く祖父
祖父最後の言葉「一矢刺せば、死ぬ」は「一夜さ経てば、死ぬ」

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 寡黙なお祖父さんと17歳の高校生には、意思疎通がはとんどなかった。祖父はいくつだったのだろうか。75歳も80歳も、年寄りというだけで、たいした意識の差は私にはない。

 
高校2年から3年になる春休み、父の妹、叔母の家、横田家に新築祝いに代理で行くように父から言われた。恵那で明智線に乗り換え、岩村町へ行った。そのとき祖父と一緒だった。

 明智線岩村町駅で下りて岩村城(森欄丸居城)のふもと(殿町)にある叔母の家まで30分は歩くことになる。

 叔母の嫁いだ家は岩村城の代々家老の家柄で、明治維新後、城山の周りの杉木を退職金代わりに貰ったという話だった。横田家の杉木には、高いところに白帯がペンキでみんな塗ってあった。従兄弟の長兄が塗ったと言っていた。

 高校生の私は普通に歩いたが、祖父の歩みは遅かった。
 同年代の友としか歩かないから、私には老人に歩きを合わせて、ゆっくり歩く優しさがなかったかもしれない。その差が広がるばかり。後ろを見てだいぶ離れてしまった祖父を待った。年寄りがこんなにゆっくり歩くとは知らなかった。30分という道のりが1時間はかかった。

 何度か止まって、祖父との距離を縮めた。
 それで祖父が喜んでいるようにも見えないし、特に親近感もなかった。祖父が孫の私に声を掛けるわけでもなかった。いやだという感情はないが、孫に何か伝えるというか、幼い者とのコミニュケーション手段を持っていなかった。そんな距離感がある祖父だった。
 昔のお爺さんはそんなものかもしれない。

 祖父には娘7人と一人息子、それが私の父である。
 孫は30人いた。だから孫一人ひとりの個性や人柄を理解できなかったかもしれない。その孫の中でも、私は下から7番目、名前を覚えてもらうだけでもいい方か。
 私の気持ちは、そんな感じであった。

 岩村城の城下、岩村高校のすぐ上、殿町が新しい家の住所だった。
 新築の家は英語の教師をしていた従兄が設計した。新築は土台のコンクリートと建物が微妙にずれていると彼は言っていた。

 何をご馳走になったか記憶にないが、台所で赤飯を炊いていたから、赤飯だろう。叔母がぱきぱき仕事を進めていた。

 叔母の連れ合いは亡くなっていたので、叔母の父である祖父が主賓であった。どう扱われていたか、覚えていないが。祖父に関心がなかったということだらろう。まあ、お互い様かもしれない。

 その5年後、夏の日中、祖父が畑で倒れて、家で寝付いた。88歳であった。私は大学生で夏休み中、東京でアルバイトしていた。父から連絡を貰って急いで中津に帰った。
 それから、一週間、急に衰弱して死に到った。


 死の前日、
「一矢(ひとや)刺せば、死ぬ」と祖父は叫んだ。
 看病していた娘たち、叔母たちが聞いたそうだ。ボケたことを祖父が言ったと思ったそうだ。
「誰も刺させんよ」
 横田の叔母が床に着いている祖父に耳元で答えた。
そこで、祖父は再び叫んだ。
「一矢刺せば、死ぬ」
 聞こえなかったかと思って、祖父は前より大きく言ったらしい。

 翌日、祖父は死んだ、と知らせを聞いた。
「一矢(ひとや)刺せば、死ぬ」は
「一夜(ひとよ)さ経てば、死ぬ」
とわかったときは、遅かった。

 入れ歯を外していたから、発音が明瞭ではなかった。死に到るときまで、祖父は意識が正常だった。同時に、自分の思いが伝えられなかった悔いを残して死んでいっただろう、と思う。

 葬式が一段落したとき、横田の叔母が
「うちの主人のときは泣いているわけにはいかなかったが、お祖父さんの死んだときは思う存分泣けた」
 といったその言葉が印象深かかった。
 
その叔母もつい最近鬼籍に入った。95歳だった。

 横田家の新築祝いに行ったとき、岩村駅から殿町までの道のり、祖父の歩みが遅かったことが、5年後、祖父が死んだとき、急に思い出された。

 「歯、足、・・の順に衰える」という言い習わされた言葉がある。それを地でいったのか、5年前の祖父の衰えぶりを後から思い出した。あのときは、83歳だった。


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