ご近所つきあい

母の友だち、町内の拡声器さん
☆今後とも、励ましクリックよろしくね!
 人気ブログランキングへ  ↓   ↓
人気blogランキングへ  ご感想  お書きください。


 映画「
きけ、わたつみの声、これを見てきたWおばさんは、映画に感激したせいか多弁だった。熱がこもると声が高くなり、離れにいた私は聞くつもりはなくても聞こえた。
 おばさんが我が家に昼日中に入り込んで、お茶のみしながら母と長時間喋っていた。もちろんおばさんだけではないが、そんな光景は当り前だった。

 おばさんはカゲで「町内の拡声器」と言われていた。自分チの自慢話から近所のゴシップやら何でもあちこちで話すので有名だった。個性は強かったが、決しておばさんは悪い人ではない。その証拠に、同級生は校長の娘との縁談を紹介してもらった。

 おばさんの義弟K氏が小学校の校長で、何かといえば「Kさんが」と口にした。義弟のK氏を教養のある一族の代表扱いにしているように聞こえた。夫であるおじさんは時々南小学校へ理科の機材修理に来るのを見かけたが、本職はなにか結局わからなかった。


 大学に入って1年過ぎた頃、岐阜県学生寮が文京区名荷谷にあった。下宿していた叔母の家が区画整理にかかって、住む所に困っていたから、学生寮に入れないものかと思った。
 たまたまK氏の息子Aさんがその寮委員をしていると知ったので、親しくもなかったが、「学生寮に入れてもらえませんか」と手紙を出したら、当人からは何も連絡はなかったが、回りまわってウチの父から、
「岐阜県選出の代議士に会いに行け」
手紙が来て書いてあった。Wおばさんへ連絡が行き、そこから手を尽くしてくれたのだろう。

 60年安保のさなか、装甲車に守られている国会の議員宿舎に代議士を訪ねていった。装甲車で道をふさがれ、その前には2000名の学生が座り込みしていた。
 通ることはできず、デモ学生代表から機動隊に話をつけてもらって、議員宿舎へ行った。
(翌日の新聞で、ここのデモ学生と機動隊の衝突でずいぶん学生が負傷し、逮捕者も出た、と写真入りでトップ1面から社会面にデカデカと報道された。)

 結局、文京区の学生寮には入れなかったが、この体験も、おばさんの尽力かな、と思っている。
 ゴミみたいな陳情だったのか、代議士は偉そうな口の利き方で電話中、その合間に一言、「三鷹の学生寮はどうだ」と秘書に伝えただけだった。国会の議員宿舎に入ったのは、前にも後にもこのときだけだ。


 十和田湖にヒメマスを育てた映画
「われ幻の魚を見たりを見てきた時も、おばさんの感激のおしゃべりが聞こえてきた。
 いつしか私はその映画を観たような錯覚を持った。
 群れをなして寄せてくるヒメマスを見て、主人公、和井内貞行※2が十和田湖へ走るシーン、映画のクライマックスを撮るのに、トロッコに載せた撮影機が振動しないように車輪にゴムを巻いて振動防止をした。そんな撮影の裏話まで、おばさんはまるで見てきたように喋っていた。

 昭和18年、名古屋の空襲が激しくなって、母は疎開してきた当初からWおばさんと恵那精麦で一緒に働いたパート仲間だった。父の後添えになってからも親しく付き合っていた。仲たがいを何度もしたらしいが、最後死ぬまで親しく、おばさんが死ぬと、母も一年後、平成元年1月に亡くなった。

 おばさんは、中津川からすると恵那山の向こう、一山越えた飯田から嫁入りした人だった。鉄道のなかった時代、飯田は隣村の感覚だったらしいが、今は歩いて来るという交通手段がないも同然で行き来はあまりない。

 「[わたつみ]というのは海にかかる枕言葉で・・・」と、特攻の若者が海で死んだから、水つく屍・・・。薀蓄を語り始めると、ウチの母は黙って聞くしかない様子だった。
 言ってみれば、中学で習う程度のことを麗々しくいうから、近所の人たちに敬遠されるのだなと思えた。田舎の人たちは自分を教養あると見せるのを嫌うから、余計におばさんの振る舞いを苦々しく思うのだろう。

 おばさんは一日一回は我が家にきていたし、きっと母も行っていただろう。数日顔を見ないと、物足りない気さえした。
 夏は夕暮れから、家の前に椅子四、五こ出して夕涼みをした。本町通にはそういう家は多かった。うちの父は正座やあぐらが苦手で、椅子で食事することが多く、学校にあるような椅子がウチにあった。

 夕涼みしていると、近所の人が集まってきた。もらい風呂に来る人も多かった。昔の人の知恵で、クーラーのない時代は湯上りには当然のように涼んでいた。そこで、肩を叩いたり、昔話をする。こうして夜も9時過ぎ10時頃まで時間を潰した。そうすると、山間の中津川の町中も涼しくなり、やっと寝られる。

 近所の人が来れば、子どもも付いてくる。おばさんの末娘U子がよくきた。その頃はまだ小学生だった。ウチの父の肩を叩いて親しくしていた。大人とも気さくに話しができる子だった。

 後に「嫁にどうだ。」と聞かれたことがあった。自分達の老後を見てもらおうと思っている母の意図が読めた。気立てはいいと盛んに勧められた。あまりに身近な子だったから、なんとなく、踏み込む前に気持ちがパスしていた。

 40代になるころ、本町通りで数人で夕涼みしている前を通ったついでに、U子と話してみると、この子が大人に好かれる理由がわかった。あたりがいい。逆らわないで話を聞く姿勢があった。


 同級生の結婚式が、木曽川、中津市内が見下ろせる桃山の旅館で行われた。
 幼馴染ということで、私がスピーチを指名された。即席ではあったが、幼いころからの思い出を交えて五分ほどで話を終えた。

 きょうはうまく話せたと思って席に座ると、
「常ちゃん、話が上手にまとまっている」
 おばさんはほめてくれた。そういう点、率直に言ってくれる。それが翌日には、母に伝わっていた。それが拡声器の拡声器たる所以
ユエンではあるが。

☆今後とも、励ましクリックよろしくね!
 人気ブログランキングへ  ↓   ↓
人気blogランキングへ  ご感想  お書きください。
※1950年6月15日、関川秀雄監督による「日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声」(東横映画)、

※2
 1897年(明治30年)鉱山を退職した和井内は本格的に養魚事業に取り組みます。最初鯉を放流したが捕獲が難しく失敗。次の標的はカワマスでした。日本各地の孵化場を見学し、長男を東京の水産講習所に送るなどして、十和田湖にマスの孵化場を自費で作り、カワマスの稚魚を放流し一家の浮沈をかけたのでした。2年がたち3年が過ぎていきます。しかし網にかかったのは僅か数匹、カワマスもまた失敗したのでした。
 その頃彼は北海道支笏湖で養殖されているヒメマスのことを知ります。そして三度目の挑戦がはじまります。全財産をはたいてヒメマスの卵を購入し、卵の黄身を餌に孵化させ、5センチほどに成長した稚魚5万匹をはじめて放流したのは1903年春でした。そして2年半。
 1905年秋、風が全くないのに十和田湖の湖面はさざなみで揺れています。ヒメマスが産卵のため大挙して浅瀬に押し寄せてきたのです。養魚を志して22年、和井内貞行の血の吐くような努力がとうとう実ったのでした。


目 次