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精麦会社の倉庫には、(岐阜県)恵那郡全体で消費する麦が積み上げられていた。その量は何十万人分であるから、いつも倉庫は麦の袋が山のようになっていた。
戦争に負けて、朝鮮や台湾から米がはいらなくなったから、食糧不足だった。日本へは世界中から食糧援助の麦が来ていた。カナダ、アメリカ、オーストラリアと麻の袋(南京袋)に刻印が押されていた。
南京袋が積み上げられた倉庫内で、いつも私たち子どもが遊んでいた。
従業員も事務所の父たちもあまり注意しなかったから、遊び場としては絶好だった。
ときどき、県の食糧庁の役人が岐阜から検査にきていた。
金属筒を斜めに切った道具を袋に突き刺し、盆に精麦を取り出し見ていた。そんな日には、倉庫の中に子どもは入って遊べなかった。
原麦が貨車で中津川駅につくと、馬車やトラックが駅と会社倉庫の間を往復した。原麦を積み下ろしする馬車の列が七、八台は並んだ。泉町の角から本町、岩田の歯医者、小池の魚常あたりまでつながった。
馬は、ほとんど軍用馬の生き残りだったようだ。
馬方の大山さんが扱っていた馬は舌が半分切れて落っこちそうだった。秣マグサを食べるたびに、切れそうな舌がナントも気の毒だった。馬車が止まって、糞尿は出し放題。近所は大迷惑だっただろう。
馬の血を吸うアブが来たり、糞に金バエがたかった。子どもがシッポの長い毛を引っ張って抜いたりもしていた。この尻尾の毛を利用してすずめを捕るワナを作るというが、実際に捕った人は殆どいない。
数年して、運送会社、日通の方針でトラックに変り、馬方は運転手にならざるを得なかった。
白米のごはんをギンシャリとも言って、めった食べられるものではなかった。
米7麦3でご飯を炊くのが普通で、ギンシャリはあこがれであった。昭和20年代初めからなかばまで、麦飯の時代が続いた。
昭和二十二年頃から二十六年が精麦会社のピークだった。
朝鮮戦争の特需を契機に日本の復興し始めた途端、麦飯の時代は終わった。日本人の嗜好の変化は激しい。目に見えて麦を食う人は急に減った。その変化は、ウチの経済状態、人間関係に反映し険悪になっていったから、子供にさえ明瞭にわかった。
原麦一袋は30キロある。
トラックの上から下へ手カギで従業員の肩へ移し運んだ。男衆の仕事だった。手カギを引っ掛けるからその穴から麦が倉庫内、あちこちにこぼれていた。
南京袋の原麦が倉庫の天井まで積まれていた。原麦は押麦になり、再び袋は積み上げられた。このほこりぽい南京袋の山で子供の遊び回っていた。
倉庫には麦はずいぶんこぼれていたが、鬼ゴッコする男の子たちにはちっとも興味が湧く対象ではない。
ある日、小学生の男の子たちの中に友達のお姉さんが二人加わっていた。16歳と19歳くらいだ。こんなに離れた年齢の女の子が加わるとは、変な感じであった。
表通りに近い倉庫は自由に出入りできたし、従業員は工場にいて監視はないも同然だった。男の子たちは鬼になるのはイヤだから、鬼になってくれるこのお姉さんたちを残して、麦の袋の上や隙間に散って隠れた。
倉庫の隙間は埃だらけ、そんなところを走り回って健康にいいはずがない。それでも高低さがあり、立体的に移動ができ、遊園地のような楽しさがあった。
隠れていても、友達のお姉さんがちっとも探しに来ないから、そっと様子を見に行った。高い上から見ているので、二人のお姉さんはこっちに全然気づかない。
上の姉さんが布袋を広げ、下の姉さんが床の麦を手でかき集め袋に入れているところだった。この情景を見て、なぜ二人がカクレンボの鬼になりたがったかわかって、急に現実の生活というものが感じられた。
そういえば、友達の同級生が一番下の弟で、父親はいないようだし、二人の姉さんと母親には仕事がない様子だった。ここの家では、生きることに真剣、遊びも遊びではないんだ。母を助けるためにこんなことをしなければ生きられないのか、と思うと遊び心がさめてしまった。
友達の同級生は釣りにしても、魚すきでも真剣だった。子供の遊びというより、漁をしている意識ではなかったかと思う。
朝子供同士で桃山の後田川へ向かうと、途中で意気洋々と帰って来る彼と出会った。大きな鯉をバケツに頭から突っ込んで、捕まえた顛末を聞かせてくれた。きょうはもう生活のため十分働いてきたという姿だった。
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