
昭和二十四年の夏、市営プールからの帰り、犬が死ぬ瞬間を見たことがある。
真夏、暑い日だった。
竪清水町の柘植司法書士事務所付近で人だかりしていた。近づくと、隣家の板塀の下から茶色の犬が横たわっているのが見えた。犬は箱の中で荒い呼吸をしていた。それを数人の人が沈黙して見守っていた。私も一緒になって見た。
しばらく荒い呼吸の続いたのち、コクッ、コクッと数回波うつように頭と体全体が揺れたかと思ったら、突然止まり、コト切れた。
「死んだ」
誰かぼっそと言った。
始めて見た「臨終」の瞬間だった。
これが「死」だ。
生命の終わりの瞬間を見ることで「命」を知った。
当時、町のなかには、こういう「死」がいつも「生」と隣り合わせで存在した。
この犬もジステンパーに罹ったのだろうか。
保健所で予防接種する制度がなかった時代では、ジステンパーが流行すると近所で犬がバタバタと死んだ。
林家でハチ(♀)が急死した。その時は近所の子供にとっては身につまされた。足の短い、胴の太い雑種で、お世辞にもあまり美犬とは言えなかったが、ハチは本町の子供たちの遊び仲間だった。
西山や後田川へ遊びに行く時は、いつもついて来た。子供が遊びに行く時は、たいてい近所の犬が遊び仲間でついって来た。ハチは5歳くらいだから、ドッグエイジで考えればまだまだ三十代女ざかりと言ってもいい。
早朝5時頃だった。
ハチの死体を自転車に乗せ、近所の子供数人で埋葬に出掛けた。桃山のお岩から前川に沿って少し入った。誰もいないのを幸い、田んぼの土手を穴を掘ってハチの遺骸が埋めた。田んぼの持ち主には迷惑なことだったかもしれないが、断りなく勝手にやった。今でも掘れば、ハチの骨が出るだろう。
幸い、ウチのエスはジステンパーに掛からなかったので、長生きをした。
私が学校から帰ると、私を見つけて飛びついて喜んでくれた。ただし、これは発情期以外の時のことである。発情期は家に寄り付かなくなり、数日帰って来ないことが多かった。
エスは女盛りには一回に十匹以上生んだ。
あまりにたくさん生み貰い手がいないから、小犬の処分に困った。捨てざるを得ないわけだ。子犬に愛着がわかないうち、まだ目を開かないうちにしないと、可愛くなってくるとますます処分しにくい。それは分かっている。
「中津川に放り投げて来い」
親や義兄から言われる私はつらかった。
「捨てろ」
私は自分で捨てられないから、近所の子に封した段ボール渡し頼んでやらせたことがある。橋の欄干の上から段ボールは落ちて行った。
わけわからないでやってくれるが、箱は四、五メートル下、水の上に落ち、川を流れ始めるとフタが開き、中から子犬が出て濁流に流されていく。その姿をみて、心が痛んだ。今なら、動物愛護協会から相当の非難を浴びることだろう。
幼い時には、エスは私の布団に入ってきて寝ていた。
炬燵の中に潜り込むのも得意だった。しかし、当時炬燵は炭火で焚いているから、中にあまり長くいると一酸化炭素中毒になる。エスも時には、フラフラになって出てきて、畳の上にゲロ吐くこともあった。布団の中ははザラザラで砂だらけになった。
そのエスが子野へ田植えについて行き、マムシに噛まれ瀕死の重傷を負ったことがある。私はその現場にはいなかったが、毒が回った右後ろ足が腫れ上がって動けなくなり、エスを自転車の荷台に載せて子野から本町まで連れて来たという。
怖さを知らずで、エスはマムシにジャレてしまったのかも知れない。
子犬のころ、ひよこがヨチヨチ歩いているのに近づいて行って、親鳥がくちばしでガツンとエスは頭をつつかれた。「キャン」といって、逃げて帰って来たところを見ていたことがある。
一度こうしたことがあって、エスはひよこにはちょっかい出さなくなった。マムシではそういう経験がなかったから、この災難にあったのだろう。
歩けなくなったエスは縁台に寝たまま、動けなかった。マムシに噛まれた後右足を盛んにナメていた。元気がなかった。
このまま死ぬのかな。私にとってエスは兄弟のようなもの。メスだから妹のように思っていた。なんとか治ってくれ、と切に祈っていた。元気ない姿を見て涙が出た。
マムシに噛まれて重症だったエスのケガに薬もつけなかったが、結局一ヵ月ほどナメ続けて治してしまった。野性の強さを実感した。
その後もマムシに噛みつかれた5センチほどのキズ跡は毛が再生されなくて、はっきりと残っていた。
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