昭和29年3月1日、第五福竜丸がビキニ環礁でアメリカ軍の原爆実験で被爆したことが報道されると、世間は大騒動だった。しかし、中津で大騒動になるとは思わなかった。
ところが、本町の「魚常」で焼津から仕入れたマグロを売ったことが、追跡調査で判明したので、保健所の係官がガイガー計数管を持って、購入者の家を一軒ずつ調査に回った。
太平洋のビキニ環礁で被爆するのも珍しい、第5福竜丸から陸揚したマグロ、これを食うのも宝くじに当たるようなものだから、ウチは大当たりだったかもしれない。
海のない岐阜県の山がちな中津川でマグロを食べるのは、東京でマグロを食べるよりズーッと贅沢である。そういうマグロを購入してくれる家はそう多くはない。だから「魚常」のオジさんは「野沢」さんを覚えていていたのだろう。
その日午後4時過ぎか、私が家にいると保健所の係官が訪ねてきた。
いわゆるガイガー計数管をもっていた。父と母を放射能が残っているか調べていた。無線長の久保山さんが原爆症で死んでしまったくらいだから、日本中が大騒動だった。
我が家で買ったマグロは、母は父と食べたが、子供の私たちは縁がなかった。食わせてもらっていなかった。
母と父は、係官に調べてもらったら、帰ってもらうつもりの様子の母に対して、係官は当然子供の健康を調べるつもりだった。親がマグロを食うなら当然子供にも食べさせるはず。係官はそう思ったに違いない。それが、親だと思う。親は食わずとも、子供に食べさせる。これが世間の常識だろう。
係官の常識が通じない家庭がここにあったのだ。
「子供には食べさせていない」という母親に係官は、なにか聞き間違えか、と思っているようだった。
私たちは、母から食べさせられるものは、親とは違うものだった。親の部屋からすき焼きの匂いがしてくるのに、子供は昼の残りをたべさせられていた。
母の料理は一体なんだったろう。あまり、子供に朝から食事作ったり、子供のことを考えてくれる人ではなかった。
生母は早くに死んで、私は母が作った食べ物を覚えていなかった。19歳の姉に料理を作ってもらったというより、幼少期はオジヤばかり食べていた。昭和20−21年頃、食べるもはまるでなかった。そして、本町で新しい母の元で暮らし始めた。
名古屋で生活していた母は、よく焼き飯(チャーハン)を作って食べさせた。
新しい母の味は、ふーん、これは都会の感じだと思った。
が、油がよくなかったのか。この焼き飯を食うたびよく下痢になった。今思うと、使い古した油を使っていたのではないか。だから、焼き飯のときは、胃腸の弱い私はこれが嫌いだった。しかし、食いたくなければ、食うものはない。選択の余地はなかったから、食わなければ何もなかった。
6年生のとき、駅の企画で「桑名の海」へ行ったときは、船で沖に出て海の中州でハマグリをたくさん掘った。海に連れて行ってもらって楽しかった。思い出としては、残っている。しかし、ハマグリのことを忘れていていた。
翌日の夕方庭を見ると、取ったハマグリの殻が庭に放り出されていた。母と父が二人で食べたとわかった。子供にはハマグリを食わせてもらえなかったことに気づいた。
うちはこうだから、余所も親と子供は別に食事をしているものと思っていた。
保健所の係官は、あきれた親だと思ったか、あるいは、別に感慨もなく帰ったのか、知る由もないが、我が家の家庭環境はそんな親子関係で育っていた。
この家庭環境は、子供の心の健康にはよくなかった。
まったく、人災にさいなまれているのだった。貧しいだけなら、親も子も同じ家族として、貧しさに向かいあえる、耐えられるもの。しかし、貧しさを子供にだけ押し付ける姿勢の親には耐えがたい気持ちであった。
後妻とその妹も同居しているのは不思議な家庭だったが、母の妹Hさんは母に代わって夜のうちに米を洗ってお釜に入れていた。これなら白米のご飯が炊けるはず。ところが、朝になると麦ご飯だった。
つまり、麦は別にといで置おいて、朝になると、炊く前に麦を上において炊き、子供たちに麦の部分を与えて、自分たちは白米を食うのだった。
麦食ったから子供は元気に育った、と言ってくれる人もいるが、冗談じゃない。屈辱の何物でもない。
これが親の所業だろうか。シンデレラや白雪姫のまま親を見るとなるほどと思った。
マグロを子供に食べさせないのは、母の当然の行動だった。
保険所の係官は我が家を出て次のマグロ購入者の家を訪ねて行った。特異の我が家のことは覚えているだろうか。まあ、次の家に行く前には忘れてしまうだろう。
私には心の中の「刺トゲ」として、いつまでも刺さっている。
これだけ、子供を犠牲にして生きられる親もめずらしい、と思う次第だ。
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